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2021年1月1日金曜日

受肉およびその本質とは何か


参考聖書箇所:
 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネによる福音書 1:1)

 「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネによる福音書 1:14)

 「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである』」(ヨハネによる福音書 14:6-7)

 「イエスは彼に言われた、『ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい』」(ヨハネによる福音書 14:9-11)

 「わたしと父とは一つである」(ヨハネによる福音書 10:30)

2020年12月30日水曜日

神への祈りは、この三つの点を理解することがとても重要だ

 兄弟姉妹の皆さん:

主にある平安がありますように。私たちクリスチャンにとって、祈りは神様との正常な関係を築くために重要です。特に朝夕の祈りは重要です。ですから、どのように祈るかを学ぶことは非常に重要なのです。けれども多くの兄弟姉妹が戸惑いを感じます。私たちは朝晩毎日祈り、食前の感謝と食後の感謝、集会でも祈ります。祈るときにはいつでも、主に多くを語り、長時間祈ります。けれども、あたかも神様はそこにはおられないかのようにいつも感じてしまいます。祈りながら、まるで独り言をいっているかのように感じ、心に平安や喜びを感じることができません。なぜ神様は私たちの祈りを聞いて下さらないのでしょうか。神様に称賛していただけるように祈るにはどうしたら良いのでしょうか。

実は、神様が私たちの祈りを聞いて下さらない理由が2~3あります。私が理解しているところをみなさんと分かち合いたいと思います。

2020年12月29日火曜日

キリスト教と全能神教会の違いは何か

 キリスト教と全能神教会は同じ神を信じている。宗教の歴史を理解している人々は、イスラエルのユダヤ教はヤーウェ神が律法の時代に行なった働きから生まれたことを知っている。キリスト教、カトリック教、東方正教はすべて肉となった主イエスが贖いの働きを行なった後に現れた教会であった。それと同様に全能神教会は、神が裁きの働きを行なうために終わりの日に肉となった時に出現した。恵みの時代のクリスチャンは旧約聖書と新約聖書を読み、神の国の時代の全能神教会のクリスチャンは今日、終わりの日に神が直接語った『言葉は肉において現れる』を読む。キリスト教は恵みの時代に主イエスが行なった贖いの働きに従い、全能神教会は戻ってきた主イエス、つまり全能神の終わりの日の裁きの働きを受け入れる。キリスト教と全能神教会の違いは、キリスト教が律法の時代と恵みの時代に神が行なった働きに従い、一方全能神教会は終わりの日に神が実行した神の家から始まる裁きの働きに従うことである。キリスト教と全能神教会の違いは、キリスト教とユダヤ教の違いに似ている。

2020年12月23日水曜日

すべては神の言葉が達成する

 神はそれぞれの時代において言葉を語り、働きをする。そして神は異なる時代において異なる言葉を話す。神は規則に従わず、同じ働きを繰り返さず、過去の事柄への懐旧の念を抱かない。神は常に新しく、古さとは無縁であり、毎日、新しい言葉を話す。あなたは今日従うべきことに従うべきである。それが人の責任であり本分である。現在における神の光と言葉を軸として実践することが不可欠である。神は規則に従わず、神の知恵や全能性を明らかにするために多くの異なる視点から話すことができる。神が霊の視点から話すか、人の視点から話すか、あるいは第三者の視点から話すかは問題ではない。神は常に神であり、人の視点から話すので神は神ではないと言うことはできない。神が様々な側面から話す結果、一部の人に観念が生まれた。そのような人は神について何の認識ももっておらず、神の働きについても何の認識もない。神が常に一つの視点から話せば、人は神に関して規則を定めないであろうか。人がそのように振舞うことを神が許すことができるであろうか。神がどの視点から話すにせよ、神にはそうする目的がある。もし、神が常に霊の視点から話したなら、あなたは神と関わりをもつことができるであろうか。それゆえ、神は時おり第三者の立場で語り、あなたに言葉を与え、あなたを現実性へと導く。神が行なう万事が適切である。要するに、すべては神になされているのであり、あなたはこのことを疑うべきではない。神は神であり、それゆえ、どの視点から話しても、神は常に神である。これは不変の真理である。どのように働きをしても、神は依然として神であり、神の本質は変わることがない。ペテロは深く神を愛し、神の心に叶う人であったが、神はペテロを主あるいはキリストとして証ししなかった。なぜなら、存在するものの本質は、それ自体であり、決して変わることはできないからである。働きにおいて、神は規則に従うのでなく、働きを効果的にし、人の神についての認識を深めるために種々の方法を用いる。神が働きをする方法のすべてが、人が神を知るのを助け、そしてそれは人を完全にするためである。神がどのような働きの方法を用いても、それぞれが人を作り上げ完全にするためである。神が働きをする方法のうちの一つが非常に長い時間続いたかもしれないが、それは人の神への信仰を強化するためである。したがって、あなたがたの心には疑いがあってはならない。これらはすべて神の働きの過程であり、あなたがたはそれらに従わなければならない。

2020年12月19日土曜日

真理とは何か

参考聖書箇所:

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネによる福音書 1:1)

 「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。……めぐみとまこととに満ちてい。」(ヨハネによる福音書 1:14)

 「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書 14:6)

 「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります」(ヨハネによる福音書 17:17)

関連する神の言葉

 神自身がいのちであり、真理であり、神のいのちと真理は共存している。真理を得られない者がいのちを得ることは決してない。真理による導き、支え、施しがなければ、あなたは文字と教義、そして何より死しか得られない。神のいのちは常に存在し、神の真理といのちは共存する。真理の源を見つけられなければ、いのちの糧は得られない。いのちの施しを得られないなら、真理を一切得られないことは間違いなく、ゆえに想像と観念を除けば、あなたの全身はただの肉、臭い肉でしかない。書物の言葉がいのちに数えられることはなく、歴史の記録が真理として敬われることはなく、過去の規則が神によって今語られている言葉の記録になることはないと知りなさい。神が地上に来て、人の間で生きているときに表わすものだけが真理であり、いのちであり、神の旨であり、神が現在働く方法である。『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より引用

2020年12月17日木曜日

世界がかくも暗く邪悪なのはなぜか。堕落の頂点にいる人類は滅ぼされるべきなのか

(1)世界がかくも暗く邪悪なのはなぜか

参考聖書箇所

「全世界は悪しき者の配下にある」(ヨハネの第一の手紙 5:19)

「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハネによる福音書 1:5)

関連する神の言葉

 最初に神により造られたアダムとエバは、聖なる人間であった。すなわちエデンの園にいた間、彼らは聖く、けがれがなかった。また彼らはヤーウェに忠実であって、ヤーウェを裏切ることなど一切知らなかった。なぜなら、彼らはサタンの影響による妨害を全く受けず、サタンに毒されておらず、全人類の中で最も純粋だったからである。彼らはエデンの園に住み、一切けがれにけがされることなく、肉に囚われることなく、ヤーウェを畏れ敬っていた。その後、彼らがサタンに誘惑された時、彼らはへびの毒に見舞われ、ヤーウェを裏切ることを望み、サタンの影響の下で生きた。最初、彼らは聖なるものであり、ヤーウェを敬っていた。そうすることだけが、彼らを人間としていた。その後、彼らがサタンに誘惑された後、彼らは、善悪を知る木の実を食べて、サタンの影響の下で生きた。彼らは、サタンにより次第に堕落させられ、本来の人間の姿を失っていった。最初、人間にはヤーウェの息吹があり、不従順であることは一切なく、心には悪が一切なかった。この時、人間は本当の意味で人間であった。人間は、サタンにより堕落させられた後、獣となった。人間の考えは悪とけがれで満たされ、善や聖さはなかった。それはサタンではなかろうか。『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」より引用

2020年12月15日火曜日

人類はなぜ神を信じるべきか

関連する神の言葉

 神は万物を支配し、管理している存在です。神は存在するすべての物事を造り、管理し、支配し、それらに施します。これが神の地位であり、また神の身分です。万物、そして存在するすべての物事について、神の真の身分はあらゆる被造物の創造主であり、支配者なのです。それが神の所有する身分であり、神は万物にあって唯一無二の存在なのです。神の被造物のうちひとつとして、人類の中にあるか、あるいは霊界にあるかを問わず、何らかの方法や言い訳を使って、神の身分と地位を装ったり、神の代理となったりすることができる人はいません。なぜなら、被造物を支配する身分、力、権威、そして能力をもつ存在はただひとつだけであり、それは唯一無二の神自身だからです。神は万物の中で生き、動いています。神は万物のうえ、最も高い場所へと昇ることができます。また神は、血と肉のある人間のひとりに身をやつし、人々と向き合って苦楽を共にすることもできます。それと同時に、神は存在するすべてのものを支配し、その運命と進む方向を決定するのです。さらに、神は人類全体の運命と方向性を導きます。このような神は、あらゆる生物が崇め、付き従い、知るべき存在です。したがって、人類のうちどの集団、どの種類に属しているかを問わず、あらゆる個人、あらゆる生物にとって、神を信じ、神に付き従い、神を畏れること、また自分の運命に対する神の支配と神の采配を受け入れることが、唯一かつ必然の選択肢なのです。『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 10」より引用

2020年12月12日土曜日

日々の神の御言葉「神の現れによる新時代の到来」抜粋72

 アメリカ人でも、イギリス人でも、どこの国の人でも、自分という枠を乗り越え、自分という存在を超越し、神の創造物として神の働きを見なくてはならない。そうすれば、神の足跡を枠にはめることはないだろう。それは、特定の国や民族に神が現れることはないだろうと考えている人が多いからである。ああ、神の働きの意義はなんと深く、神の現れはなんと重要か。それは人の観念や考えで測ることなどできるのだろうか。そのため、神の現れを探し求める際には、みずからの国籍や民族性という枠を突き抜けるべきである。そうすれば、自分自身の観念に制約されることなく、神の現れを喜び迎えることができる。そうでなければ、暗闇の中にいつまでもとどまり、神から認められることもない。

2020年12月9日水曜日

神様に聞いていただく3つの祈り方

兄弟姉妹の皆さん:

 主にある平安がありますように。私たちクリスチャンにとって、祈りは神様との正常な関係を築くために重要です。特に朝夕の祈りは重要です。ですから、どのように祈るかを学ぶことは非常に重要なのです。けれども多くの兄弟姉妹が戸惑いを感じます。私たちは朝晩毎日祈り、食前の感謝と食後の感謝、集会でも祈ります。祈るときにはいつでも、主に多くを語り、長時間祈ります。けれども、あたかも神様はそこにはおられないかのようにいつも感じてしまいます。祈りながら、まるで独り言をいっているかのように感じ、心に平安や喜びを感じることができません。なぜ神様は私たちの祈りを聞いて下さらないのでしょうか。神様に称賛していただけるように祈るにはどうしたら良いのでしょうか。

 実は、神様が私たちの祈りを聞いて下さらない理由が2~3あります。私が理解しているところをみなさんと分かち合いたいと思います。

第1に、私たちは心から神様に祈っているかどうかということです。

 主イエスは言われました。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。…父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」(ヨハネによる福音書 4:23)神様の御言葉から、神様の意図に沿った、神様を礼拝する祈りでなくてはならないことが分かります。神様が最も重要視するのは、私たちには神様の前に誠実な心があるかということ、そして誠実に真実を語るかどうかということです。神様を敬い、誠実な心で祈る限り、神様は私たちの祈りを受け入れて下さいます。けれども私たちはしばしば、神様の前に静まって真心で祈ることができません。唇は動いていても、心は家族や仕事など、あれこれ心配事で一杯です。唇が動くだけで心は動かない時もあります。誠実な心になれず、ただお決まりの行為を繰り返し、深く考えずにただ祈ります。しばしば威厳を感じさせるような、もったいぶった空虚な言葉を語り、単に聞こえの良い言葉やあまり意味のない言葉を使って神様を欺こうとします。例えば、親や仕事を主より愛しているにもかかわらず、祈るときには、「ああ主よ、あなたを愛しています。全てを投げ捨てて心からあなたに尽くします。」などと祈ったりします。家族に嫌なことが起これば、否定的な気持ちになり、主に不平を言います。それでも祈る時には、主に感謝の言葉を述べて賛美の言葉を述べるのです・・・。基本的に祈りの中では、誠実でなく、ただ大それた空しい言葉を使い、偽りの言葉を使い、形だけのものであったり、聞こえの良い言葉を並べて神様の前に自分を偽ったりするのであればその人は神様を欺いているのです。神様は誠実でない祈りは聞かれません。

2020年12月8日火曜日

主の再臨はなぜ雲に乗って公然と降臨することだけでなく、秘かに降臨する受肉を伴うのか。


参考聖書箇所
 「見よ、わたしは盗人のように来る」(ヨハネの黙示録 16:15)

 「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした」(マタイによる福音書 25:6)

 「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(ヨハネの黙示録 3:20)

 「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」(マタイによる福音書 24:36)

 「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」(マタイによる福音書 24:30)

 「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう」(ヨハネの黙示録1:7)

関連する神の言葉

2020年12月6日日曜日

全能神教会 | 終わりの日における神の働きはなぜ霊を通して行われないのか。神はなぜ肉において働きを行うようになったのか。

参考聖書箇所

 「モーセは言った、『どうぞ、あなたの栄光をわたしにお示しください』。ヤーウェは言われた、『……あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである』」(出エジプト記 33:18-20)

 「ヤーウェはシナイ山の頂に下られた。そしてヤーウェがモーセを山の頂に召されたので、モーセは登った。ヤーウェはモーセに言われた、『下って行って民を戒めなさい。民が押し破って、ヤーウェのところにきて、見ようとし、多くのものが死ぬことのないようにするためである』」(出エジプト記 19:20-21)

 「民は皆、かみなりと、いなずまと、ラッパの音と、山の煙っているのとを見た。民は恐れおののき、遠く離れて立った。彼らはモーセに言った、『あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞き従います。神がわたしたちに語られぬようにしてください。それでなければ、わたしたちは死ぬでしょう』」(出エジプト記 20:18-19)

 「すると天から声があった、『わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう』。すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、『雷がなったのだ』と言い、ほかの人たちは、『御使が彼に話しかけたのだ』と言った」(ヨハネによる福音 12:28-29)

関連する神の言葉

2020年12月3日木曜日

全能神教会 | 終わりの日に再臨した主イエスは、いったいどのような働きを行うのか。

参考聖書箇所
 「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音 16:12-13)

 「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネによる福音書 12:47-48)

 「さばきが神の家から始められる時がきた」(ペテロの第一の手紙 4:17)

 「すると、長老のひとりがわたしに言った、『泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる』」(ヨハネの黙示録 5:5)

2020年11月26日木曜日

全能神教会 | サタンの噂を信じ、神に背を向ける者たちを、神はどのように取り扱われますか


参照聖書箇所
 「へびは女に言った、『あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです』。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。……そこでヤーウェ神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。」(創世記3:4-6、23)

関連する神の言葉
 「わたしに属さない者はわたしに敵対するものである。わたしに属するものはわたしと相容れるに適った者である。これは疑いの余地のないことであり、サタンに対するわたしの裁きの原則である。この原則を知るべきである──サタンから来る全てもの者は裁かれ、焼き尽くされ、灰となる。これはわたしの怒りでもあり、人はわたしの性質をさらに知ることができる。」
『言葉は肉において現れる』の「第百八章」より

 「またわたしという肉全体は、何よりも神の完全なる表象である。わたしを畏れない者、反抗的な目をする者、わたしに反抗的な言葉を話す者は誰でも、必ずわたしの呪いと怒りによって死ぬだろう(わたしの怒りの故に呪いがあるであろう)。また誰でもわたしに忠誠と子としての愛を示さず、わたしを騙そうとする者は、わたしの憎しみの中で必ず死ぬだろう。」
『言葉は肉において現れる』の「第七十九章」より

2020年11月23日月曜日

全能神教会 | 中国共産党政府と宗教界の噂を信じるという問題の性質は何ですか。


関連する神の言葉
 「真理を理解しない者はいつでも他人に従う。もし人が、これは聖霊の働きだと言うと、あなたもまた、これは聖霊の働きだと言う。もし人がこれは悪霊の仕業だと言うと、あなたもまた、疑惑を持つか、あるいは、それは悪霊の仕業だと言う。あなたはいつでも他人の言葉を物真似して繰り返すだけで、自分では何も識別できないし、自分の頭で考えることができない。それは、自分でものごとを区別できない、立脚点を持たない者である。このような人は価値のない惨めな人間だ。そうした人々は、いつでも他人の言葉を繰り返す。今日、これは聖霊の働きだと言われていても、いつの日にか、誰かがこれは聖霊の働きではなくて、人間の仕業に過ぎないと言う。しかし、あなたはそれを自分で見極める事ができず、他人がそう言うのを聞くと、同じことをて言う。実際は聖霊の働きであるものを、人間の働きだと言う。あなたは、聖霊の働きを冒瀆する者たちの一人となったのではないか。これは、物事の判断がつけられなくて神に敵対しているのではないか。いつの日か、どこかの愚か者がやって来て、『これは悪霊のしわざだ』と言うと、それを聞いたあなたは途方にくれて、またもや他人の言うことに縛られてしまうかもしれない。誰かが混乱を引き起こすようなことを言うたびに、あなたは自分の立脚点に固く立つことができなくなる。それは、真理を把握していないからだ。」
『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より

2020年11月22日日曜日

全能神教会 | 日々の神の御言葉「聖霊の働きとサタンの働き」抜粋445


 日常生活で自分に何かが起きる際、それが聖霊の働きに由来するものなのか、サタンの働きに由来するものなのか、どのように識別すべきだろうか。状態が正常であれば、その人の霊的生活と肉における生活は正常であり、理知も正常で秩序がある。このような状態にあるとき、彼らが経験し、自分の中で知るようになる物事は、一般的には、聖霊に触れられたことに由来するものだと言える(神の言葉を飲み食いする際に洞察力があったり、多少の単純な認識を有していたりすること、あるいは何らかの物事において忠実であること、そして神を愛する力があることは、いずれも聖霊に由来するものである)。聖霊が人の中で行なう働きは特に正常である。人はそれを感じられないし、実際には聖霊の働きであるにもかかわらず、人自身から生じたもののように思われる。日常生活において、聖霊はすべての人の中で大小いずれの働きも行なうが、異なっているのはその働きの程度だけである。中には優れた素質をもつ人がおり、そのような人は物事を素早く理解し、聖霊による啓きは彼らの中で特に大きい。その一方で素質に乏しい人もおり、物事を理解するのにより時間がかかるものの、聖霊は彼らの内側にも触れ、彼らもまた神への忠実を遂げることができる。聖霊は神を追い求めるすべての人の中で働きを行なうのである。日常生活において人々が神に反対したり、反抗したりすることがなく、神の経営に反することを行なわず、神の働きに干渉しなければ、神の霊が一人ひとりの中で大なり小なり働きを行なう。神の霊は彼らに触れ、彼らを啓き、信仰と力を与え、彼らを感動させて積極的に入るようにし、怠惰になったり肉の楽しみをむさぼったりしないようにする。そして彼らが進んで真理を実践し、神の言葉を切望するようにさせる。そのすべてが聖霊に由来する働きである。

2020年11月21日土曜日

全能神教会 | 神が中国共産党政府と宗教界の奉仕を用いることにおいて、神のどんな知恵と全能性が明らかにされていますか。(1)

 「六千年にわたるわたしの経営(救いの)計画全体は、三つの段階、あるいは時代から成る。まず律法の時代、次に恵みの時代(贖いの時代でもある)、そして最後に神の国の時代である。これら三つの時代におけるわたしの働きは、各時代の性質によって異なるが、それぞれの段階で人の必要性に対応している、というよりむしろ、わたしに対する戦いでサタンが用いるその策略に応じて異なっている。わたしの働きの目的は、サタンを打ち負かし、わたしの知恵と全能を明らかにし、サタンの策略をすべてあばくことで、その支配下に生きるすべての人間を救うことである。それはわたしの知恵と全能を示すと同時に、サタンのおぞましさを明らかにするものである。それに加えてわたしの創造物が善悪を区別し、わたしこそがすべての物を治める者であることを認識し、サタンが人類の敵、下の下、悪い者であることがはっきり分かるよう教え、善悪、真理と偽り、聖さと汚れ、偉大さと卑劣の違いを明白にすることである。それにより無知な人間が、人間を堕落させるのはわたしではないこと、創造主であるわたしだけが人間を救うことができ、楽しみとなる物事を授けることができることを、わたしに対して証しし、わたしこそがすべての物を治める者であり、サタンは後にわたしに背いたわたしの被造物の一つにすぎないと彼らは知ることができる。」
『言葉は肉において現れる』の「贖いの時代における働きについての真実」より

 「神がサタンをすぐには滅ぼさないことによって、サタンがどのように人々を堕落させ、どのように神が人間を救われたかを理解できることに注目する必要がある。サタンが人間をどこまで堕落させ、サタンの罪のリストがどう天に達するかを人間が理解した後で初めて、神は最終的にサタンを滅ぼされる。それにより人々は神の義と神の性質を理解できるからである。」
『キリストの言葉の記録』の「神の義なる性質を理解するには」より

2020年11月18日水曜日

全能神教会 | 中国共産党政府と宗教界の邪悪な本質とは何でしょうか。


参照聖書箇所
 「へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。」(マタイによる福音23:33)

 「この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは……」(ヨハネの黙示録12:9)

関連する神の言葉
 「わたしが言う赤い大きな竜は、単なる一匹の赤い大きな竜ではない。むしろ、それは「赤い大きな竜」という同義語を持つ……」
『言葉は肉において現れる』の「第九十六章」よ

2020年11月15日日曜日

全能神教会 | なぜ宗教界は全能神と全能神教会を罪に定め、狂気のごとく抵抗することにそれほど多くの努力を注ぐのでしょうか。

参照聖書箇所

 「もう一つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。」(マタイによる福音 21:33-39 )

 「そこで、祭司長たちとパリサイ人たちとは、議会を召集して言った、『この人が多くのしるしを行っているのに、お互は何をしているのだ。もしこのままにしておけば、みんなが彼を信じるようになるだろう。そのうえ、ローマ人がやってきて、わたしたちの土地も人民も奪ってしまうであろう』。…… 彼らはこの日からイエスを殺そうと相談した。」(ヨハネによる福音書 11:47-48、53)

関連する神の言葉

2020年11月10日火曜日

全能神教会 | なぜ中国共産党政府は全能神と全能神教会を狂気のごとく弾圧し、残虐にも迫害するのでしょうか。

参照聖書箇所

 「この時代は邪悪な時代である。」(ルカによる福音書 11:29) 「全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。 」 (ヨハネの第一の手紙 5:19) 「光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。」(ヨハネによる福音書 3:19-20 ) 「もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。」( ヨハネによる福音書 15:18)

 「黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。」(イザヤ書 14:12-14) 「さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。 ……龍は、自分が地上に投げ落されたと知ると、男子を産んだ女を追いかけた。」(ヨハネの黙示録 12:7-9、13)

関連する神の言葉

2020年11月8日日曜日

全能神教会 | 神は、ニネベの人々の心の底からの真摯な悔い改めを確認した

  ヤーウェの警告に対するニネベとソドムの反応の明らかな相違点

 滅びる、とは何を意味するであろうか。言葉通りに解釈すれば、消滅するということである。しかし、どのようにして消滅するであろうか。一体誰が町全体を滅びさせることができようか。当然、そのようなことは人間には不可能である。ニネベの人々は愚かではなかったので、この宣告を聞いてすぐに、その旨を理解した。ニネベの人々は、その宣告が神から伝えられたものであること、神が業を行うつもりであること、自分達の邪悪さがヤーウェ神の怒りに触れ、その怒りが自分達に対するもので、程なくしてニネベの町も自分達も滅ぼされるであろうことを理解した。ヤーウェ神の警告に対し、ニネベの人々はどのように行動したであろうか。聖書では、王から一般人まで、ニネベの人々の反応が詳細に記載されている。聖句には、「そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、『人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。…』とある。