2020年12月17日木曜日

世界がかくも暗く邪悪なのはなぜか。堕落の頂点にいる人類は滅ぼされるべきなのか

(1)世界がかくも暗く邪悪なのはなぜか

参考聖書箇所

「全世界は悪しき者の配下にある」(ヨハネの第一の手紙 5:19)

「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハネによる福音書 1:5)

関連する神の言葉

 最初に神により造られたアダムとエバは、聖なる人間であった。すなわちエデンの園にいた間、彼らは聖く、けがれがなかった。また彼らはヤーウェに忠実であって、ヤーウェを裏切ることなど一切知らなかった。なぜなら、彼らはサタンの影響による妨害を全く受けず、サタンに毒されておらず、全人類の中で最も純粋だったからである。彼らはエデンの園に住み、一切けがれにけがされることなく、肉に囚われることなく、ヤーウェを畏れ敬っていた。その後、彼らがサタンに誘惑された時、彼らはへびの毒に見舞われ、ヤーウェを裏切ることを望み、サタンの影響の下で生きた。最初、彼らは聖なるものであり、ヤーウェを敬っていた。そうすることだけが、彼らを人間としていた。その後、彼らがサタンに誘惑された後、彼らは、善悪を知る木の実を食べて、サタンの影響の下で生きた。彼らは、サタンにより次第に堕落させられ、本来の人間の姿を失っていった。最初、人間にはヤーウェの息吹があり、不従順であることは一切なく、心には悪が一切なかった。この時、人間は本当の意味で人間であった。人間は、サタンにより堕落させられた後、獣となった。人間の考えは悪とけがれで満たされ、善や聖さはなかった。それはサタンではなかろうか。『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」より引用

 人はサタンに堕落させられた後、神を畏れる心を失い、被造物として持つべき機能を失って、神に背く敵になった。人はみなサタンの権威の下に生きるようになり、サタンの命令に従った。それゆえ、神は被造物の間で働くことができず、被造物からの畏れ敬いを得ることはさらにできなかった。人は神に造られており、神を礼拝すべきであるが、人は神に背いてサタンを崇拝した。サタンは人の心の中の偶像になった。こうして、神は人の心における立場を失い、つまり人を造った意義を失った。だから、神が人を造った意義を回復しようとするなら、人に本来の姿を回復させ、人に堕落した性質を脱ぎ捨てさせなければならない。『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より引用

 数千年にわたる堕落の後、人は麻痺し、物分かりが悪くなり、神に反対する悪魔になり、神への人の反抗の歴史は「史記」に記録されるほどになり、人自身でさえその反抗的行いに完全な説明ができなくなってしまっている。人はサタンにより深く堕落させられ、惑わされてしまったので、どちらに向いたらよいかわからなくなっているのである。今日でさえ、人はまだ神を裏切っている。人は神を見ると裏切り、神が見えないときもやはり神を裏切る。神の呪いや怒りを目の当たりにしても、それでも神を裏切る人々さえいる。そこでわたしは、人の理知はその本来の機能を失い、人の良心も本来の機能を失ったと言う。……ひどく汚れた地に生まれ合わせて、人は社会に駄目にされ、封建的倫理の影響を受け、「高等教育機関」で教えを受けてきた。時代遅れの考え方、堕落した倫理観、さもしい人生観、卑劣な人生哲学、全く価値のない存在、下劣な生活様式と風俗、これらはすべて人の心をひどく侵害し、その良心をひどくむしばみ、攻撃してきた。その結果、人はますます神から離れ、ますます反対するようになった。人の性質は日ごとに悪質になり、神のために進んで何かを投げ出そうという者は一人としておらず、進んで神に従う者は一人としておらず、さらには神の出現を進んで探し求める者も一人としていない。それどころか、サタンの支配下で快楽を追求しているだけで、泥の地で肉体の堕落にふけっている。真理を耳にしたときでさえ、暗闇に生きる人々はそれを実行に移そうとは考えず、たとえ神の出現を見たとしても、神を探し求める気持ちにはならない。こんなにも堕落した人類にどうして救いの可能性があり得ようか。どうしてこんなにも退廃した人類が光の中に生きることができようか。『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より引用

 人が神に反対し、反抗する根源はサタンによる堕落である。サタンによって堕落させられたので、人の良心は麻痺してしまい、不道徳になり、考え方は低下し、逆行する精神状態を持ってしまった。サタンによって堕落させられる前は、人はもちろん神に従い、神の言葉を聞いた後それらに従っていた。人は健全な理知と良心を生来持っており、人間性も正常であった。サタンによって堕落させられた後、人が本来持っていた理知、良心、人間性は鈍くなり、サタンによって損なわれ、したがって人は神に対する服従や愛を失った。人の理知は異常になり、性質は動物の性質と同じになり、神に対する反抗はますます頻繁になり、深刻になっている。しかし、人はまだこのことに気づかず、認識せず、単に盲目的に反対し、反抗している。人の性質の暴露は人の理知、見識、良心の表出であり、人の理知や見識は不健全で、良心は極めて鈍くなっているので、したがって人の性質は神に対して反抗的である。『言葉は肉において現れる』の「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」より引用

 夜が静かにしのび寄って来ても、人は気づかない。なぜなら、人の心は夜がどのようにして近づくのかも、それがどこから来るのかも感知できないからである。夜が静かに過ぎ去ると、人は日の光を歓迎するが、光がどこから来て、どのように夜の闇を追い払ったかについては、なおさら知るよしもなく、まして気づいてもいない。こうして繰り返される昼と夜の移り変わりによって、人は一つの時期から次の時期へ、一つの歴史的背景から次の歴史的背景へと導かれ、それと同時に、それぞれの時期における神の働きと、それぞれの時代における神の計画が確実に遂行される。人は神と共にこれらの時期を歩んできたが、神が万物と全ての生けるものの運命を支配することも、神がどのように万物を指揮し導くのかも知らない。これは太古の昔から現代まで、人には知るよしもないことであった。その理由は、神の業があまりにも隠され過ぎているからでも、神の計画がまだ実現されていないからでもない。それは、人の心と霊が神からあまりに遠く離れているため、神に従いながらもサタンに仕え続けるまでなり、しかも、まだそのことに気づいていないからである。神の足跡と顕現を積極的に探し求める者は一人もいない。また進んで神の配慮と加護の中で生存しようとする者もいない。その代わりに、この世と邪悪な人類が従う生存の掟に適応するために、邪悪な者、サタンの腐敗に頼ることを人は望む。この時点で人の心と霊は、サタンへの貢物となり、その餌食となった。その上、人間の心と霊はサタンの住みかとなり、サタンの恰好の遊び場となった。こうして人間は、人間であることの原則について、また人間存在の価値と意義についての理解を気づかないうちに失うのである。神の律法、そして神と人の間で交わされた契約は、人の心の中で次第に薄れ、人は神を求めることも神に注意を払うことも止めてしまう。時間が経つにつれ、人は神が人間を創造した理由も、神の口から出る言葉や神から来る全てをもはや理解しなくなる。それから人は神の律法と掟に抵抗し始め、人の心と霊は麻痺してしまう……。神は自らが最初に創造した人間を失い、人間はその始まりの根源を失う。これが人類の悲哀である。『言葉は肉において現れる』の「神は人間のいのちの源である」より引用

 人類が社会科学を考案して以来、人の精神は科学と知識に占領されてしまった。それから科学と知識は人類を支配する道具となり、もはや神を礼拝するための充分な余地は人にはなくなり、神を礼拝するための好ましい条件もなくなった。人の心の中で占める神の位置はどこまでも低められた。心の中に神が無いまま、人間の内面世界は暗く、希望も無く、空虚である。そのため、人類の心と精神を満たすために多くの社会科学者や歴史家、政治家が登場し、社会科学の理論や人類進化の理論、神が人を創造したという真理に矛盾するその他の理論を発表した。こうして、神が万物を造ったという真理を信じる人はますます少なくなり、進化論を信じる人の数はさらに増加した。神の働きの記録と旧約聖書の時代の神の言葉を神話や伝説として取り扱う人々はますます多くなっている。人々の心は、神の威厳と偉大さに、神が存在し万物を支配しているという信条に対して無関心になっている。人類の生存、そして国家と民族の運命はもはや人にとって重要ではなく、人は飲食と快楽の追求にしか関心のない虚しい世界に生きている。……神が今日どこで働きを行っているのか、あるいは神が人の終着点をいかに支配し、定めているのかを自らすすんで探し求める人はほとんどいない。こうして、人間の文明は、人間の知らないうちに、ますます人の望みどおりには行かなくなり、こんな世界に生きている自分達はすでに亡くなった人々に比べて不幸せだと感じている人さえ数多くいる。過去に高度の文明を築いた国々の人たちでさえそのような不満をあらわにしている。なぜなら、神の導きなしには、支配者や社会学者が人類の文明を維持するためにどんなに頭を悩ませても何の役にも立たないからである。誰も人の心の中の空洞を埋めることはできない。誰も人のいのちとなることはできず、どのような社会学的理論も人を悩ませる虚しさから人を解放することはできないからである。科学、知識、自由、民主主義、余暇、快適さなどは、人間につかの間の慰めしかもたらさない。これらのものがあっても、人は必然的に罪を犯し、社会の不公正を嘆く。これらのものは、人の探求への渇望や欲求を抑えることはできない。人は神によって造られたからであり、人の無意味な犠牲や探索はさらなる苦悩につながるだけで、人類の将来にどのように向き合うべきか、目の前にある進路にどのように対峙すべきか分からないまま人を常に恐怖に怯えたままにさせるからである。人は科学や知識を恐れるまでになり、空虚感をそれ以上に恐れるようになる。この世であなたが自由な国に住んでいようと、人権のない国に住んでいようと、人類の運命から逃れることは決してできない。あなたが支配者であろうと、被支配者であろうと、人類の運命、奥義、そして終着点を探求したいという願望から逃れることは到底できない。ましてや、途方にくれるほどの空虚感から逃れることなどできない。全人類に共通するこの現象を社会学者は社会現象と呼んでいる。しかし、このような問題を解決できる偉人が現れることはない。人間は結局、人間に過ぎず、神の地位といのちに取って代われる人間はいない。誰もが食べる物があり、平等で自由で公平な社会だけが人類に必要なのではない。人類に必要なのは神の救いと神によるいのちの満たしである。神の救いといのちの満たしを受けて初めて、人間の必要、探究心、そして霊的空虚感が解決されるのである。一つの国や民族の人々が神の救いや配慮を得ることができなければ、その国や民族は暗黒に向かって、破滅への道を突き進み、神によって滅ぼされる。『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より引用

0 件のコメント:

コメントを投稿