神は、自身の業により刑罰と裁きが要求されているため、そしてそれ以上に、刑罰と裁きが人間に必要であるため、刑罰と裁きを行う。人間は刑罰と裁きを受ける必要があり、その後に初めて神への愛を実現する事が出来る。現在、あなたがたは完全に確信しているが、些細な挫折があると、あなたがたは問題に見舞われる。あなたがたの背丈は小さすぎるので、一層深い認識を得るために、そうした刑罰と裁きを一層多く経験する必要がある。現在、あなたがたはある程度神を敬い、畏れており、神が真の神であることを知っているが、神に対する大きな愛が無く、いわんや清い愛に達していることは無い。あなたがたの認識は過度に表層的であり、あなたがたの背丈はまだ不十分である。あなたがたが、ある環境に真に直面する時、あなたがたは依然として証しに立ったことが無く、あなたがたが成長に積極的であることは極めて少なく、実践する方法を全く知らない。殆どの者が消極的かつ非活動的である。そうした者は心の中で密かに神を愛するが、実践する術が無く、自分達の目標が何であるかを明瞭に理解していない。完全にされた者は正常な人間性だけでなく、良心の判断を超え、良心的基準を超える真理を備えている。そうした者は自分の良心で神の愛に報いるのみならず、それ以上に、神を知り、神が愛しいこと、人間が愛
もしも人々が本当に完全に、神の人類経営(救い)の目的と共に、人間の正しい道を理解することができるなら、人々は個人の将来や終着点を宝として心に握りしめることはないだろう。もはや豚や犬よりも悪い両親に仕えたいとも願わないだろう。人の将来と終着点とは、まさにペテロの「親」と呼ばれるものの今日版なのではないのか。それはまさに人自身の肉と血だ。肉の将来である終着点は、神を生きていながらに見ることなのか、あるいは死後に魂が神に会うことなのか。肉は明日、患難の中にあるように巨大な炉の中で尽きるのか、あるいは燃え盛る火に入れられることになるのか。人の肉がはたして不幸や苦しみに耐えられるのかに関するこの類の問いが、今この流れの中にあって、脳があり正常な思考をしている人々が最も心配している問いなのではないのか。