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2020年10月7日水曜日

全能神教会 | 日々の神の御言葉「ペテロの経験──刑罰と裁きに関するペテロの認識」抜粋525




神は、自身の業により刑罰と裁きが要求されているため、そしてそれ以上に、刑罰と裁きが人間に必要であるため、刑罰と裁きを行う。人間は刑罰と裁きを受ける必要があり、その後に初めて神への愛を実現する事が出来る。現在、あなたがたは完全に確信しているが、些細な挫折があると、あなたがたは問題に見舞われる。あなたがたの背丈は小さすぎるので、一層深い認識を得るために、そうした刑罰と裁きを一層多く経験する必要がある。現在、あなたがたはある程度神を敬い、畏れており、神が真の神であることを知っているが、神に対する大きな愛が無く、いわんや清い愛に達していることは無い。あなたがたの認識は過度に表層的であり、あなたがたの背丈はまだ不十分である。あなたがたが、ある環境に真に直面する時、あなたがたは依然として証しに立ったことが無く、あなたがたが成長に積極的であることは極めて少なく、実践する方法を全く知らない。殆どの者が消極的かつ非活動的である。そうした者は心の中で密かに神を愛するが、実践する術が無く、自分達の目標が何であるかを明瞭に理解していない。完全にされた者は正常な人間性だけでなく、良心の判断を超え、良心的基準を超える真理を備えている。そうした者は自分の良心で神の愛に報いるのみならず、それ以上に、神を知り、神が愛しいこと、人間が愛

2020年6月11日木曜日

全能神教会 | 東方閃電 | 違う形の愛

2011年、私はある偶然のきっかけで中国からブラジルにやって来ました。到着した当初は新鮮な経験に圧倒されて好奇心で一杯になり、将来についてよい感触を得ていました。しかししばらくすると、この新鮮な感情は遠く離れた異国の地で自分を見つける孤独と苦しみに取って代わられました。毎日1人で帰宅し、1人で食事をとり、話しかける相手さえいないまま、日々まわりの壁を見つめていたのです。孤独を感じるあまり密かに泣くこともよくありました。苦悩と無力をもっとも強く感じていたまさにそのとき、主イエスが1人の友人という手段をお使いになって、私をある集会へと連れてくださいました。集会で主の御言葉を読み、賛美歌を歌い、祈ることを通じ、私の孤独な心は主によって慰められました。また聖書から、天地と万物が神によって作られたこと、人間もまた神の創造物であることを学びました。さらに、主イエスが人類の贖いのために十字架にかけられたこと、私たちを罪から贖われたのは主イエスでいらっしゃること、主こそが人類の唯一の贖い主でいらっしゃることも学びました。主の救いという他の何にもまして偉大なことを目の当たりにした私は深く感動し、主に一生つき従おう決意しました。そこで感謝祭の日に洗礼を受け、正式にクリスチャンとなったのです。私は歌うこと、とりわけ神の賛美歌を歌うことが好きだったので、洗礼後は聖歌隊に加わることで、教会のために積極的に働くようになりました。神のお導きと祝福のおかげで、私は平和と幸福のうちに生きていました。集会に赴いたり礼拝の中で神を讃えたりするたび、自分が活力で満たされるように感じたのです。
しかし、よいときは長続きしませんでした。教会で聖職を執り行なう一員になってみると、教会の兄弟姉妹が表面上は互

2020年4月25日土曜日

全能神教会 | 福音漫才「聖書を離れて」日本語吹き替え



向陽は家庭教会に務めており、多くの宗教信仰者と同様に、「神の言葉と働きは皆聖書の中にある。主を信じるとは聖書を信じるということ。聖書は主を表すのであり、聖書を守れば天の国に入り、永遠のいのちを得る」と考えます。終わりの日の神の働きを受け入れた兄弟はこの考えに疑問を抱き、2人はユーモラスな対話に臨みます。神の言葉と働きは本当にすべて聖書のなかにあるのか。聖書は本当に主を表すのでしょうか。私たちは聖書を守ることで、天の国に入って永遠のいのちを得られるのでしょうか。答えはどうぞ漫才「聖書を離れて」をご覧になって見つけてください。

2020年4月15日水曜日

全能神教会 | 悔い改めの道と永遠のいのちの道の違い

たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:47-48)
わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12-13)
わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書7:21)
関連する神の言葉
イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとな

2020年4月3日金曜日

全能神教会 | 救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た

数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年もイエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスがユダヤ人の間で行った贖罪の働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての逸脱さえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの

2020年4月2日木曜日

全能神教会 | 七つの雷が轟く──神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言

わたしは異邦人国家にわたしの働きを広めている。全宇宙にわたしの栄光は閃く。わたしの旨は星のように点々と散らばる人々の中に組み入れられ、みなわたしの手によって誘導され、わたしが与えた作業をしている。この時点からわたしは新しい時代へと入り、全ての人々を別の世界へ連れて行く。わたしが自分の「故郷」へ戻ったとき、わたしの最初の計画にある働きの別の部分に着手した。その働きにより、人々がわたしをより深く知るようになるためだ。わたしは宇宙全体を眺め、わたしの働きにとっていちばん良い時だと知る[a]。そしてわたしは、人々の中で新しい働きをするため、あちこちを巡る。いずれにしろこれは新たな時代であり、わたしは、もっと多くの新しい人々を新たな時代へ引き入れ、淘汰すべき者達をさらにより多く投げ捨てるために新しい働きを

2020年1月19日日曜日

全能神教会 | 「玉座から命の川の水が流れ出る」から、その八「どうやって『永遠の命の道』を得るか」



「玉座から命の川の水が流れ出る」――どう追い求めれば永遠の命の道を得ることができるでしょうか?

東方閃電全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

2020年1月16日木曜日

全能神教会 | 「5・28招遠事件」が家族の危機を引き起こす

私は田舎に暮らす普通の女性で、以前は家庭の重荷に苦しめられ、息もできないほどでした。その結果、私はとても短気になり、夫と毎日のようにいがみ合っていました。このような生活など、とても続けられるものではありません。私はつらくなると必ず、「神様、どうか私をお救いください!」と声をあげたものです。やがて2013年、世の終わりの全能神福音が私のもとに届きました。そして神の御言葉を読み、兄弟姉妹との集会に出ることで、全能神こそ私が苦しいときに呼び求めていた方だと確信するようになり、そのため世の終わりの全能神の働きを喜んで受け入れました。
私は神のこの御言葉を読みました。
世界の創造以来、わたしはこの一群の民、すなわち今日のあなた方を予め定め、選び始めた。あなた方の気質、素質、外見、霊的背丈、あなたが生まれた家族、あなたの仕事と結婚、あなたの全て、あなたの髪や肌の色、またあなたが生ま

2019年12月28日土曜日

全能神教会 | キリスト教と全能神教会の違いは何か


キリスト教全能神教会は同じ神を信じている。宗教の歴史を理解している人々は、イスラエルのユダヤ教はヤーウェ神が律法の時代に行った働きから生まれたことを知っている。キリスト教、カトリック教、東方正教はすべて肉となった主イエスが贖いの働きを行った後に現れた教会であった。全能神教会は、神が裁きの働きを行うために終わりの日に肉となった時に出現した。恵みの時代のキリスト教徒は旧約聖書と新約聖書を読み、神の国の時代の全能神教会の信徒は終わりの日に神が直接語った『言葉は肉において現れる』を読む。キリスト教は恵みの時代に主イエスが行った贖いの働きに従い、全能神教会は戻ってきた主イエス、つまり全能神の終わりの日の裁きの働きを受け入れる。キリスト教と全能神教会の違いは、キリスト教が律法の時代と恵みの時代に神が行った働きに従い、一方全能神教会は終わりの日に神が実行した神の家から始まる裁きの働きに従うことである。キリスト教と全能神教会の違いは、キリスト教とユダヤ教の違いに似て

2019年11月11日月曜日

全能神教会 | 七つの雷が轟く--神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言

わたしは異邦人国家にわたしの働きを広めている。全宇宙にわたしの栄光は閃く。わたしの心は星のように散らばる人々の中に現れ、みなわたしの手によって誘導され、わたしが与えた作業をしている。この時点からわたしは新しい時代へと入り、全ての人々を別の世界へ連れて行く。わたしが自分の「故郷」へ戻ったとき、わたしの最初の計画にある働きの別の部分に着手した。その働きにより、人々がわたしをより深く知るようになるためだ。わたしは宇宙全体を眺め、わたしの働きにとっていちばん良い時だと知る[a]。そしてわたしは、人々の中で新しい働きをするため、あちこちを巡る。いずれにしろこれは新たな時代であり、わたしは、もっと多くの新しい人々を新たな時代へ引き入れ、淘汰すべき者達をさらにより多く投げ捨てるために新しい働きをもたらした。大きな赤い竜の国家にあって、わたしは、人々には測り難い段階の働きを実行し、彼らを風の中で揺れさせる。その後、多くの者が吹く風によって静かに漂い去る。まさにこれが、わたしが一掃しようとしている「脱穀場」だ。それがわたしの願いであり、それはわたしの計画でもある。というのは、わたしが働いている間に多くの「悪い者」が静かに忍び込んだからだ。しかしわたしは急いで彼らを追い払いはしない。むしろ、適切な時が来たら、彼らを追い散らす。そうしてはじめて、わたしはいのちの泉となり、真にわたしを愛する人々がいちじくの実やゆりの香りをわたしから受け取れるようにする。サタンがとどまる地、塵の地には、砂があるのみで純金は残っていない。だから、このような状況を見て、わたしはこのような段階の働きを実行する。わたしが獲得するものは砂ではなく、精錬された純金であることを、あなたがたは知らなければならない。悪い者がどうしてわたしの家に残っていられるだろう。狐がわたしの楽園の寄生動物になるなど、わたしが許すだろうか。

2019年11月10日日曜日

全能神教会 | 神が人々の間で偉大な業を成し遂げたことを知っているか

古い時代は過ぎ去り、新しい時代が到来した。年々歳々、来る日も来る日も神は多くの働きを行ってきた。神はこの世にやって来て、またこの世から去っていった。そのような周期が幾世代にもわたって続いてきた。今日も、神は以前と同じように、神は為さねばならぬ働き、まだ完了していない働きを続行している。何故なら今日まで神はまだ安息に入っていないからである。天地創造の時から今日まで、神は多くの働きを成し遂げてきたが、あなたは、神が今日行なう働きは以前よりずっと多く、その規模もずっと壮大であることを知っていたか。だからわたしは、神は人々の間で偉大な業を成し遂げたと言うのである。神の働きは人にとっても、神にとっても、すべてが非常に重要である。神の働きの一つひとつは人に関連するものだからである。
神の働きは見ることも感じることもできず、ましてや世間の人が見ることはできないのに、いったいどうしてそれが偉大なものだと言えるのだろうか。どのようなことが偉大だとみなされるのだろうか。確かに神の働きはすべて偉大であるということは誰にも否定できない。それでは、何故今日神が行う働きが偉大だとわたしは言うのだろうか。神は偉大なる業を成し遂げたと言う時、そこには人間がまだ理解していない多くの奥義が関わっているということに疑いの余地はない。今からそれらのことについて話そう。

2019年11月9日土曜日

全能神教会 | 神の働きは人間が想像するほど簡単か

あなたは神を信じる者の一人として、今日、終わりの日の神の働きやあなたに対する神の計画のすべての働きを受ける中で、あなたは神により引き上げられ、救いを受け取っていることを理解しなくてはならない。全宇宙における神のすべての働きは、この一群の人々に焦点を当てている。神はあなたがたにすべての努力を注ぎ、あなたがたのためにすべてを犠牲にした。そして全宇宙における聖霊のすべての働きを取り戻し、あなたがたに与えたのだ。それが、あなたがたは幸運なのだとわたしが言う理由である。さらに神は、自らが選んだイスラエルの民から自分の栄光をあなたがたへと移した。それはあなたがた一団を通して、神の計画の目的を全て明らかにするためである。それゆえ、あなたがたは神の嗣業を受ける者、更には神の栄光の継承者となるのだ。あなたがたは皆このような言葉を覚えているだろう。「このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」あなた方は皆過去にこの言葉を耳にしたことがあるが、その言葉の真意を理解した者はひとりもいない。今日あなたがたは、この言葉の持つ真の意義をよく理解している。これらの言葉は終わりの日に神が成就するものである。そしてそれは、赤い大きな竜の横たわる地で、竜にひどく苦しめられている人々の上に成就する。赤い大きな竜は神を迫害する神の敵であり、よってこの地において神を信じる者たちは屈辱や迫害に晒されている。それ故、これらの言葉はあなたがた一群の中で実現するのだ。神に逆らう地において働きが行われるため、神のすべての働きは過度の妨害を受け、神の言葉の多くはすぐには達成されない。したがって、人々は神の言葉によって精錬される。

2019年11月5日火曜日

全能神教会 | 人類経営の目的



もしも人々が本当に完全に、神の人類経営(救い)の目的と共に、人間の正しい道を理解することができるなら、人々は個人の将来や終着点を宝として心に握りしめることはないだろう。もはや豚や犬よりも悪い両親に仕えたいとも願わないだろう。人の将来と終着点とは、まさにペテロの「親」と呼ばれるものの今日版なのではないのか。それはまさに人自身の肉と血だ。肉の将来である終着点は、神を生きていながらに見ることなのか、あるいは死後に魂が神に会うことなのか。肉は明日、患難の中にあるように巨大な炉の中で尽きるのか、あるいは燃え盛る火に入れられることになるのか。人の肉がはたして不幸や苦しみに耐えられるのかに関するこの類の問いが、今この流れの中にあって、脳があり正常な思考をしている人々が最も心配している問いなのではないのか。

2019年11月4日月曜日

全能神教会 | 終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる

いのちの道は、誰でも持てるものではなく、誰にでも簡単に得られるものでもない。なぜなら、いのちは神のみに由来しているからだ。それはすなわち、神自身のみがいのちの本質を持っており、神自身なくしていのちの道は存在せず、神のみが、いのちと永遠に流れつづけるいのちの生ける泉の源であることを意味する。神が世界を創造したとき以来、神はいのちの活力に関わる多くの働きをし、人にいのちを与える多くの働きをし、人がいのちを得られるよう多大な代償を払ってきた。神自身が永遠のいのちで、神自身が、人が復活できる道だからである。神が人の心に不在であることはなく、常に人の中に生きている。神は人の生活の原動力であり、人の存在の基盤であり、誕生後の人の存在にとっての豊かな鉱物である。神は人を生まれ変わらせ、人が自分の持つあらゆる役割においてしっかりと生きられるようにする。神の力と、神の消えることのないいのちの力のおかげで、人は何世代も生きてきた。その間ずっと、神のいのちの力は人の存在の支えであり、神は普通の人間が誰も払ったことのないような代償を払ってきた。神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。

2019年11月3日日曜日

全能神教会 | 神の現れによる新時代の到来

六千年間にわたる神の経営(救いの)計画が終わりを告げようとしている。そして、神の国の門は神の現れを求める人々にすでに開かれている。兄弟姉妹たちよ、何を待っているのか。あなたがたが探し求めているものは何か。神の現れを待っているのか。神の足跡を探し求めているのか。ああ、神の現れがどれほど慕わしいものか。だが、神の足跡を見出すことがいかに難しいことか。今のような時代に、このような世界で、神の現れる日をこの目で見るために何をしなくてはならないのだろうか。神の足跡をたどるには何をしなければならないのだろうか。神の現れを求める人であれば、だれでもそのような疑問を持つものである。あなたがたもそのような疑問を抱いたのは一度や二度ではないと思うが、その結果はどうだったか。神はどこに現れるのか。神の足跡はどこで見つかるのか。そうした疑問に対する答えは見つかっただろうか。そうした問いに対して、次のように答える人が多い。「神は自分に聞き従う人々に現れ、神の足跡は私たちのただ中にある。そんなに難しいことではない。」決まり切った答えであればだれにでも言える。

2019年11月2日土曜日

全能神教会 | 東方閃電 | 救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た

数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年もイエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスがユダヤ人の間で行った贖罪の働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての逸脱さえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。

2019年11月1日金曜日

全能神教会 | 神が人類のために造られた基本的生活環境に人類への神の供給を見る

これら5つの人間の生存のための基本的な条件を神が取り扱う方法から、神が人間に与えている物事が理解できるであろうか。(理解できる。)つまり、神は最も基本的な人間生存条件5つを全て造った。同時に、神はこれらの条件を管理し、制御し、人間の存在が始まって数千年を経た今も、神は依然として継続的に人間の生活環境を変化させ、人間にとって最善かつ最適な生活環境を与えているので、人間の生活が普通に維持されているのである。この環境は、いつまで維持されるであろうか。つまり、神がそうした環境を与える期間は、どれくらいであろうか。神の経営の業を神が完了するまでである。その後は、神は人間の生活環境を変化させるであろう。その変化は同様の方法で行われる可能性もあり、異なる方法で行われる可能性もあるが、今人間が真に知る必要のある事は、人類に必要とされる物事を神が継続的に与え、人間の生活環境を管理し、維持し、保護しているということである。神の選民がこのように普通に生活し、神の救いと刑罰、そして裁きを受けることが出来るのは、こうした環境があるからである。神の支配のおかげで万物は存続し、また神がこうして与えているおかげで全人類は進歩を続けている。
神が人類のために造られた基本的生活環境

2019年10月30日水曜日

全能神教会 | 神への信仰が真実であれば、頻繁に神の労りを与えられる

ニネベの人々に対する神の心の変化には、躊躇や曖昧さが一切含まれていなかった。むしろ、その変化は純粋な怒りから、純粋な寛容さへの変化であった。これが神の本質の真の明示である。神は、業に関して優柔不断であることや躊躇することが決して無い。神の業の根底にある原理と目的はすべて明白かつ明瞭であり、純粋で完璧であり、その中に策略や陰謀は一切潜んでいない。つまり、神の本質には、闇や邪悪が一切含まれていない。神はニネベの人々の悪の行いが神の目に留まったため、ニネベの人々に対して怒ったが、この時、神の怒りは神の本質に由来するものであった。しかし、神の怒りが消え、ニネベの人々に再び寛容さが与えられた時に神が明示したのも、神自身の本質であった。この変化は、すべて人間の神に対する姿勢の変化に起因するものであった。この変化の間、侵害を許さない神の性質も、神の寛容な本質も、神の愛と憐れみに満ちた本質も変わることが無かった。人々が邪悪な行動を取ったり、神を侵害したりした場合、神はその人々に神の怒りを伝える。人々が真に悔い改めた場合、神の心は変化し、神の怒りは静まる。人々が神に対して頑なに反抗を続けた場合、神の怒りは静まることが無い。神の怒りは徐々にこうした人々を侵し、最終的に人々は滅びを迎える。これが神の性質の本質である。神が示しているのが怒りであれ、憐れみと慈愛であれ、人間の心底にある神に対する行動と姿勢が、神の性質の明示により何が現されるかを左右する。神がある者に対して継続して怒っている場合、その者の心は間違い無く神に反抗している。その者は決して悔い改めず、神の前でひれ伏すこともなく、神に対して真の信仰を持つこともなかったため、その者は決して神の憐れみと寛容さを得ることはできない。ある者が神の労りや憐れみ、寛容さを頻繁に与えられている場合、その者には間違い無く神に対する真の信仰があり、その者の心は神に反抗していない。その者はしばしば神の前で正直に悔い改めるので、しばしば神の鍛錬がその者にくだったとしても、その者に神の怒りがくだることは無い。

2019年10月29日火曜日

全能神教会 | 創造主の義なる性質は現実であり、生きている

希なのは、神の憐れみと寛容さでなく、人間の真の悔い改めである
神のニネベの人々に対する怒りの程度を問わず、ニネベの人々が断食を宣言して粗布と灰を身に付けるとすぐに、神の心は次第に軟化し、神の心が変化を始めた。神がニネベを破壊すると宣言した時、ニネベの人々による罪の告白と悔い改めの前の時点で、神は依然として怒っていた。ニネベの人々が一連の悔い改めの行動を取った後、神のニネベの人々に対する怒りは、ニネベの人々に対する憐れみと寛容さへと次第に変化していった。1件の出来事において、こうした神の性質の2つの側面が同時に現れたことには、何ら矛盾することは無かった。これに矛盾が無いことは、どのようにして理解すべきであろうか。神は、ニネベの人々が悔い改めた時に、これらの対局にある本質を連続して表出し、明示しており、これにより神の本質の現実性と不可侵性を理解することができる。ここでは神の姿勢により分かることがある。それは、
神は人間に対して容赦することが無いということではなく、また神はニネベの人々に対して憐れみを与えることを望んでいない、ということでも無い。それは、人々が神の御前で真に悔い改め、悪の道を離れ、不法を手から捨てることは、極めて希だ、ということである。つまり、神が人間に対して怒っている時、神は人間が真に悔い改めること、人間の真の悔い改めを見ることを望んでおり、こうした場合に、神は憐れみや寛容さを、人間に対して引き続き寛大に与える。すなわち、人間の邪悪な行動は神の怒りに触れ、神の憐れみと寛容さは、神の言葉を聞き、神の前で真に悔い改める者、悪の道を離れ、不法を手から捨てることができる者に与えられる。ニネベの人々に対する扱いでは、神の姿勢が極めてはっきりと明示されていた。神の憐れみと寛容さを得ることは全く困難では無い。神は真の悔い改めを要求する。人々が悪の道を離れ、不法を手から捨てるかぎりにおいて、神は心と人々に対する姿勢を変える。

2019年10月28日月曜日

全能神教会 | 人類に対する創造主の真摯な思い入れ


人々は、神を知ることは簡単ではない、と言うことが多々ある。しかし、わたしは、神を知ることが困難なことは全く無い、と述べている。なぜなら、神は人間が業を目にすることを頻繁に許しているからである。現在に至るまで、神が人間との対話を辞めたことは無い。神が人間から隠れ去ったことも無く、自らが隠れたことも無い。神の心、神の言葉、神の業は、全て人間に対して明示されている。したがって、人間が神を知ることを望む限り、様々な方法で人間は神を知ることが出来る。神は人間をことさらに避けている、神は故意に人間から隠れている、神には人間が神を理解することを許可するつもりが全く無い、などと人間が盲目に考える理由は、人間が神の存在を知らず、神を知ることを望まず、そして何よりも人間が創造主の心、言葉、業などに無関心だからである。事実を述べると、もし誰かが、余暇に創造主の言葉や業について考え、理解し、創造主の心と、その心による言葉に注意を払ったとすれば、神の心、言葉、業は見ることが出来るものであり、明瞭なものであることに気付くのは困難ではない。同様に、創造主は常に人間の中にあり、人間や創造物すべてとの対話を行い、新たな業を毎日行っていることに気付くのに、努力はそれほど必要とされない。神の本質と性質は、神と人間との対話の中で表出され、神の心と考えは、神の業においてすべて明示されており、神は常に人間と共にあり、人間を見守っている。神は人間や創造物のすべてに対して、落ち着いた声で静かに語りかけ、「わたしは天の上にあり、わたしは万物の中にある、わたしは見守り、待っている。わたしはあなたの傍らにある」と述べている。神の手は温かく力強い。神の足取りは軽やかである。神の声は温和で優しい。神の身体はすれ違いざまに振り向いて人類すべてを抱擁する。神の表情は優美である。神は、立ち去ることも、消え去ることも無かった。神は、夜明けから日没まで、常に人間と共にある。人間に対する神の心からの労りと並々ならぬ思い入れ、真の思いやりと愛は、神がニネベの町を救った時にも少しずつ示されていた。特に、ヤーウェとヨナの会話では、創造主が創造した人類に対する、創造主自身の同情が露見される。これらの言葉からは、人間に対する神の真摯な思い入れを知ることができる。