2020年7月29日水曜日

全能神教会 | なぜ神は人々を裁き、罰しなければならないのか。


関連する神の言葉

イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。
『言葉は肉において現れる』の「序文」より

人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖わ
れたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。実際、この段階は第二段階の救いの働きであるとともに征服の段階である。
『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

あなたは終わりの日にイエスが降臨することだけは知っているが、正確にはどのように降臨するのだろうか。あなた方のように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。
『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より

神は何を通じて人を完全にするのであろうか。それは、義という神の性質によるのである。神の性質は主として義、怒り、威厳、裁き、呪いであり、神は主に裁きを通じて人を完全にする。一部の人々は理解できず、なぜ神は裁きと呪いによってしか人を完全にできないのかと問う。彼らは「神が人を呪ったら、人は死ぬのではないか。神が人を裁いたら、人は断罪されるのではないか。それにもかかわらず、人はどうやって完全になれるのであろうか」と言う。神の働きを理解しない人々はそう話すのである。神が呪うのは人間の不従順であり、神が裁くのは人間の罪である。神の言葉は厳しく、少しの気遣いもなく、人の内にあるあらゆるものを明らかにし、そうした厳しい言葉を通じて人の内にある本質を顕わにするが、神はその裁きを通じて人に肉体の本質についての深遠な認識を授け、それにより人は神の前に従順を示すのである。人の肉は罪から成り、サタンによるものであり、不従順であり、神の刑罰の対象である──であるから、人に自分を理解させるためには、神の裁きの言葉が人にもたらされねばならず、あらゆる精錬が行われねばならない。それにより初めて神の働きは成果を生むのである。
神の語る言葉を通じて、神は既に人の肉を断罪したことが理解できる。それでは、その言葉は呪いの言葉なのであろうか。神により語られる言葉は人の本性を顕わにし、そのように顕わにされることにより裁かれる。そして、神の心を満足させられないと知った時、心の内に悲しみと悔恨を感じ、神に対し大きな恩があり、神の心に対し不十分であることを感じるのである。時として、聖霊は内からあなたを鍛錬することがあるが、この鍛錬は神の裁きから来るものである。時として神は、あなたを責め、あなたから顔を隠すことがある。また神は、あなたに注意を払わず、あなたの内で働くことなく、無言であなたを刑罰し、精錬することがある。人における神の働きは、主として義という神の性質を明らかにするためのものである。最終的に、人は神に対しどんな証しができるのか。神は義の神であり、その性質は義、怒り、刑罰、裁きであることを、人は証しするのである。人は、義という神の性質を証しするのである。神はその裁きをもって人を完全にし、愛し、救ってきたのである──しかし、神の愛にはどれだけのものが含まれているのであろうか。そこには裁き、威厳、怒り、呪いがある。神は過去に人を呪ったが、底なしの淵に完全に突き落としたわけではなく、そうした手段により人の信仰を精錬したのである。神は人を死に追いやったわけではなく、人を完全にするために行いを為したのである。肉の本質はサタンのものである──それは神が言った通りである──だが、神が為した事実はその言葉通りではなかった。神が呪うのはあなたが神を愛するようになるためであり、肉の本質を知るようになるためである。神があなたを刑罰するのはあなたが目を覚ますためであり、内なる欠点を知らせ、人が全く価値のないことを知らせるためである。このように、神の呪い、裁き、威厳、怒りは、すべて人を完全にするためのものである。今日神が為すあらゆる事、あなたがたの内に神が顕かにする義なる性質──それは人を完全にするためのものである。神の愛はそのようなものである。
『言葉は肉において現れる』の「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」より

実際、今なされている働きは人々にサタンを捨てさせ、先祖を捨てさせることである。言葉による裁きのすべては人間の堕落した性質を暴露し、人々に人生の本質を理解させることを目的としている。繰り返されるこれらの裁きは全て、人々の心を刺し通す。ひとつひとつの裁きは人々の運命に直接影響を与え、人々の心を傷つけるためのものだ。その結果、彼らがこれらすべてのものを手離し、それによって、人生を知り、この汚れた世界を知り、また神の知恵と全能を知り、このサタンが堕落させた人類を知ることができるからである。この種の刑罰や裁きがあればあるほど、人の心は傷つき、人の霊はもっと目覚めることができる。これらの極端に堕落し、その欺きが最も深い人々の霊を目覚めさせることが、この種のさばきの目標である。人には霊がなく、つまり人の霊はとうの昔に死んでしまっている。そして、人は天が存在し、神が存在するということを知らないし、確かに人は死の奥底で葛藤していることも知らない。人は地球上でこの邪悪な地獄に生きているということをどのようにして知ることが可能だろうか。彼は自分の腐った死体が、サタンの堕落を通して、死のハデスに落ちたのをどのように知ることができるだろうか。彼は地上にあるものはすべて人類によって修復ができないほど長い間堕落されてしまったことをどのように知ることができるだろうか。そして今日、創造主が地に来て堕落した人々の集まりを救おうと探していることを、どのように知ることができるだろうか。人はあり得る限りの精錬と裁きを体験した後でさえ、彼の鈍った良心はほとんど奮い立つこともなく、事実上反応しない。人間は本当に堕落している!この種の裁きは空から降って来る残酷なひょうのようだけれど、それは人にとって多大な利益がある。もしこのように人々をさばかないなら、何の結果もなく、苦悩の地獄から人々を救うのは全く不可能であろう。もしこの働きのためでないなら、人々がハデスから出てくるのは非常に難しいだろう。なぜなら、彼らの心はずいぶん前に死んでおり、彼らの霊はずいぶん前にサタンによって踏みにじられたからである。堕落の深淵に沈んでしまったあなたがたを救うには、熱心にあなたがたを呼んだり、裁いたりすることが必要で、その時初めて氷のように冷たいあなたがたの心が呼び起こされるだろう。
『言葉は肉において現れる』の「完全にされた者だけが意義ある人生を生きられる」より

神は裁きと刑罰の働きを行うが、それは人が神についての認識を得られるようにであり、また神の証しのためである。人の堕落した性質を神が裁くことなしには、犯すことを許さない神の義なる性質を人は知ることはできず、神についての古い認識を新しいものに変えることもできない。神の証しのため、そして神の経営(救い)のため、神はそのすべてを公けにし、そうすることで、神の公的な出現を通して、人は神についての認識に到達することができ、その性質において変えられ、神のはっきりとした証しを立てられるようになる。
『言葉は肉において現れる』の「神を知る者だけが神に証しを立てることができる」より

終わりの日はすでに来ている。あらゆるものは種類によって区分され、性質に従って種類分けされる。この時に神は人の最後と終着点を明かにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、人の不従順と不義を明かす方法はないであろう。刑罰と裁きを通してのみ、あらゆるものの終局を明かすことができる。人は罰せられ裁かれて初めて本当の姿を示す。悪は悪に、善は善に、人は種類によって区分される。刑罰と裁きを通して、すべてのものの最後が明かされ、悪人は罰せられ、善人は褒美を得るであろう。そして、すべての人たちは神の支配の下に従属することになるであろう。すべての働きは義なる刑罰と裁きを通して達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順はあまりにも深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きであり、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質のみが人を完全に変えて全き者とすることができる。この性質のみが悪を暴露し、よってすべての不義なる人々を厳しく罰することができる。
『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの働きこそが人類の不義を清め、刑罰と裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが区別されるようになる。神の働きが終わる時、生き残ることのできる人は、清められ、人類のより高い領域の中に入って、地上でのよりすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が刑罰や裁きを受けた後、彼らの正体が全て露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、邪悪で、義なる人ではないからである。…悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きは、全て全人類を完全に清めるために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きは最も重要な働きであり、神の経営の働き全体の最後の段階である。
『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

説教と交わりの参考箇所

なぜ神様は堕落した人類を裁き、罰しなければならないのでしょうか。そして堕落した人類に対する神様の裁きと刑罰の意味は何なのでしょうか。この真理は特に重要です。というのは、そこには神様の働きのビジョンに関する真理が含まれているからです。もし人がその信仰においてビジョンを欠いているなら、その人は神様をどう信じれば良いのか分かりません。確かに神様を信じていても、正しい道を選択することはできません。それでは、神様に抵抗し裏切るような堕落した人類に対する裁きと刑罰にはどのような意義があるのでしょうか。まず次の点を明確にする必要があります。神様は創造主であり、被造物を支配し、裁き、罰する権威を持っています。また、神様のご性質は義であり聖です。神様はご自身に抵抗し裏切る人間がご自身の前で生きることをお許しになりません。神様は汚れて堕落したものがご自身の前で存在することをお許しになりません。それゆえ、堕落した人類に対する神様の裁きと刑罰は正しく適切であり、神様のご性質によって決められます。私たちはみな、神様が義であり、真理であることを知っています。私たちはこのことを神様が現わされるご性質から既に理解しています。神様の御言葉全てが真理です。神様は御言葉をもって天地万物を造られました。神様の御言葉は全てを創ることができ、神様の御言葉は全てを裁くことができます。神様は終わりの日に堕落した人類を裁き、罰する働きをされているのです。「神様はこれまでにも裁きの働きをなさいましたか」と聞く人もいるでしょう。神様は確かに多くの裁きと刑罰の働きをなされました。人々がそれを自分の目で見ていないだけのことです。人間が存在する以前に、サタンは神様に抵抗して裏切りました。神様はそのサタンをどう裁いたでしょうか。神様はサタンを地に追放し、サタンに追従した天使もみなサタンと共に地に追いやられました。神様は彼らを天から地へ落とされたのです。これはサタンに対する裁きではなかったでしょうか。それは裁きであり、また刑罰でもあったのです。ですから、人間が存在する前に、神様はサタンを裁き、罰しておられるのです。そのことは聖書から知ることができます。現在の人類が存在する以前に、神様の裁きと刑罰の対象となった別の人間や被造物があったでしょうか。神様によって滅ぼされた人々はみな、神様に抵抗し逆らった者であり、彼らはみな神様の裁きと刑罰の対象であったと明言することができます。ですから、神様の裁きと刑罰は神様が天地万物を造られた時から続いているのです。これは神様が万物を支配される働きの一面です。なぜなら、神様のご性質は不変だからです。それは変わることはないのです。人間が存在するようになってからは、人間は神様を裏切り、サタンに従って来たことが分かります。誰もが神様の呪いの下で生きてきたのです。あまりに多くの人々が、自分の悪の行いゆえに神様の刑罰の下で死にました。消滅させられた人たちもいます。神様を信じていながら神様を抵抗し、結果的に消え去った人々が非常に多いのです。霊的領域で懲罰を受けた人々もいれば、生きている間に刑罰を受けた人々もいます。そのため、人類は「善は善によって報われ、悪は悪によって報われる」と結論付けたのです。それはすべて神様の裁きと刑罰なのです。終わりの日における神様の裁きと刑罰の働きは、堕落した人類を救うためです。神様の働きを受け入れることで、私たちは神様の裁きと刑罰を受け入れるのです。神様の働きの経験しながら神様に逆らい背く人はみな、神様の裁きと刑罰を受けます。人々はおもに神様の御言葉による裁きと刑罰の対象ですが、時に彼らに何かの出来事が降りかかるという裁きと刑罰を受けることも、神様の懲罰を受けることもあります。私たちは皆これを目撃したことがあります。「未信者は一度たりとも神様の裁きと刑罰の働きを受け入れたことがないのだから、神様の裁きと刑罰を逃れることなどできるだろうか」という人もいます。終わりの日の神様の働きを受け入れるか否かによらず、人々はみな神様の裁きと刑罰の対象となります。誰もそれを逃れることはできません。これは事実です。宗教界にいる人々は神様の裁きと刑罰を受け入れていませんが、それから逃れることはできません。神様が人間に予め定めた刑罰を逃れることができる者はひとりもいません。これは単に時間の問題です。なぜなら、誰にもその人の結末があり、その結末もまた神様によって予め定められているからです。どのような裁きと刑罰をそれぞれが受けるかは、その人の結末から知ることができます。ある人は神様の裁きと刑罰を受け入れ、神様からの清めを受け、完全に神様の方に向き直ります。その人の結末は良い終着点であり、つまりその人は天国に入って永遠のいのちを得ます。そのような人は救いを得ます。神様の裁きと刑罰を受け入れない人々、つまり神様の働きを受け入れない人々はやがて永遠の地獄の苦しみを受けて消し去られることになります。これが彼らに神様が予め定められた裁きと刑罰であり、神様の裁きと刑罰によって定められた結末です。現在、宗教界には神様に反抗している指導者が大勢います。彼らの結末はどうなるでしょうか。悔い改めないなら、彼らは最終的に破滅と消滅に追いやられるのは避けられません。神様の裁きと刑罰を逃れることのできる者は誰ひとりいないからです。これは絶対です。私たちは神様の裁きと刑罰を受け入れたのですから、神様による人類の救いの働きを受け入れたことになります。私たちは神様の裁きと刑罰を前向きに受け入れ経験し、真に悔い改め、徐々に神様についての認識を得ていのちの性質の変化を遂げつつあります。私たちにとって、このような裁きと刑罰は救いなのです。神様の裁きと刑罰を拒む人々の場合、その結末は懲罰であり、最終的に地獄の苦しみと破滅なのです。これが神様の裁きと刑罰を逃れることの結末です。
『いのちに入ることに関する交わりと説教(3)』の「人を救う神の様々な方法には重要な意味がある」より

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