教会生活は一部の分野で成果を挙げることができるものの、重要なのはやはり実生活が人々を変化させられるということである。実生活なくして、人の古い本性を変化させることはできない。ここで例として、恵みの時代におけるイエスの働きを見てみよう。イエスはそれまでの律法を廃して新たな時代の戒めを定めたとき、実生活の実例を用いて話をした。安息日にイエスが弟子たちを連れて麦畑を歩いたとき、弟子たちは空腹になり、穂を摘んで食べた。パリサイ人たちはそれを見て、イエスと弟子たちは安息日を守っていないと言った。そしてまた、安息日に穴へ落ちた牛を救うことは許されない、安息日には何の仕事もしてはならないから、とも言った。イエスはこのような出来事を引用して、徐々に新たな時代の戒めを広めていった。当時、イエスは多くの実践的な問題を用いて人々の理解と変化を促した。これが、聖霊が働きを行なう際の原則であり、人間を変化させられる唯一の方法である。実践的な問題がなければ、人々は理論的かつ知的な理解しか得ることができず、それは効果的な変化の方法ではない。ではどうすれば、訓練を通じて知恵と見識を得ることができるだろうか。人間は話を聞いたり本を読んだり認識を高めたりするだけで、知恵や見識を得られるのだろうか。それはなぜだろうか。人間は実生活において理解し、経験しなければならない。ゆえに訓練が必要であり、実生活から離れてはならない。人は教育水準、表現力、物事の理解力、識別力、神の言葉を理解する能力、人間性の常識と規則、そしてその他の身につけるべき人間性に関連する物事など、様々な側面に注意を払い、それらに入らなければならない。理解を得ることができたら、その後は入りに集中する必要があり、そうして初めて変化を成し遂げることが可能になる。理解を得ても実践を怠れば、どうして変化を生じさせることができようか。現在、人々は多くを理解しているが、現実を生きていないため、神の言葉の本質的な理解をほとんど得ていない。あなたはかろうじて啓かれているに過ぎず、聖霊の照らしをいくらか受けてはいるが、実生活にまったく入っていないか、あるいはそれを気にも留めていないため、変化が弱められている。人々は長い年月を経て多くを理解してきた。そして理論に関する認識については多くを語ることができるものの、外面的な性質は変わらぬままであり、元来の素質も当初のままで、少しも高まることがない。このような状態で、あなたはいつになったらようやく入るのだろうか。
『言葉は肉において現れる』より引用
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