聖書は旧約・新約聖書とも呼ばれる。あなたがたは「約」の意味を知っているだろうか。「旧約」の「約」は、ヤーウェがエジプト人を殺し、イスラエル人をパロから救ったときの、ヤーウェとイスラエルの民との契約に由来する。もちろん、この契約の証しは鴨居につけた子羊の血であり、神はそれをもって人間との契約を立てた。この契約は、戸枠のてっぺんと両側に子羊の血がついた家の者はみなイスラエル人で、彼らは神の選民であり、ヤーウェは彼らを見逃す(このとき、ヤーウェはエジプト人の初子および羊と牛の初子をみな殺そうとしていた)という内容だった。この契約には二重の意味がある。まず、ヤーウェはエジプトの民や家畜を一切救わず、男の初子および羊と牛の初子を残らず殺す。そのため多くの預言書の中で、エジプト人はヤーウェの契約のために厳しく罰せられると預言された。これが契約の第一層の意味である。ヤーウェはエジプト人の初子と家畜の初子をみな殺したが、イスラエルの民はすべて見逃した。
新約は、イエスが十字架の上で流した血と、イエスを信じるすべての人との契約に因んで名付けられた。イエスの契約はこうである。ただイエスを信じれば、人々はイエスの流した血のおかげで罪を赦され、ゆえに救われ、イエスを通じて生まれ変わり、もはや罪人でなくなる。イエスの恵みを受けるには彼を信じさえすればよい。そうすれば、死後に地獄で苦しまずに済む。恵みの時代に記された書はみな、この契約の後のものである。そのどれもが、そこに含まれる働きと発言を記録している。これらの書は主イエスの磔刑による救い、あるいは契約から先には進まない。これらはどれも、経験を有する、主における兄弟たちが記した書である。したがって、これらの書も契約に因んで名付けられ、新約と呼ばれる。これら二つの契約には、恵みの時代と律法の時代だけが含まれていて、最後の時代とは何のつながりもない。ゆえに、聖書は終わりの日の今日の人々にとってそれほど役に立たない。せいぜい、時おり参照する価値があるくらいで、基本的にはほとんど無価値である。しかし、宗教関係者は、依然としてそれを最も貴重なものとしている。彼らは聖書を知らず、聖書を説明する方法を知っているだけで、そのなりたちを根本的に知らない。聖書に対する彼らの態度は、聖書に書かれていることはすべて正しく、そこに不正確なことや誤りは一切ない、というものである。聖書は正しく、誤りはないと最初から決めてかかっているので、大いに興味をもって学び調べる。今日の働きの段階は、聖書で預言されていなかった。最も暗い場所における征服の働きについて、一切言及されることはなかった。それは最新の働きだからである。働きの時代が異なるので、イエス自身でさえ、この段階の働きが終わりの日に行なわれるとは知らなかった。ならば、終わりの日の人々がこの段階の働きを、聖書を調べることでその中に見つけることなどできるだろうか。
『言葉は肉において現れる』より引用
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