2020年7月27日月曜日

全能神教会 | 終わりの日の神の裁きの働きを拒否する宗教界の帰結と結果


終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。この真理を通して人はいのちを得ることができ、この真理を通してのみ、人が神を知り神に良しと認めてもらうことができる。あなたが終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないのなら、あなたは決してイエスに良しと認めてもらうことはできず、天の国の門をくぐる資格を得ることはない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり歴史に囚われた人だからだ。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることはなく、永遠のいのちの道を得ることはない。なぜなら、彼らが持っているのは、玉座から流れるいのちの水ではなく、彼らが何千年もしがみついてきた汚水でしかないからだ。いのちの水を与えられない者は永遠に死体であり、サタンのおもちゃであり、地獄の子である。そのような者がどうして神に会うことができようか。あなたが過去にしがみつき、足踏みをしながら現状維持しようとし、現状を変え歴史を棄てようとしないなら、あなたは神に常に反することになるのではないか。神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚に固執して何もしないまま、座して自滅を待っている。このままで、あなたが小羊の足跡に従う者だと見なされることはあろうか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと言えようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたの手につかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む言葉は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人の人生を知るうえで助けとなる知恵の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするように導いてくれる道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないだろうか。そこに含まれる奥義を理解させてはくれないだろうか。あなたは、自分で自分を天国に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天国に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたは未だに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよと。そして誰が今働いているのかを見よと。誰が今、終わりの日に人を救う働きをしているのかを見よと。そうしなければ、あなたは決して真理を得ることはなく、決していのちを得ることもない。
『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より



キリストが語る真理に依り頼むことなくいのちを得ることを望む者は、地上で最も愚か者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は幻想の世界で迷子になった者だ。だから、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に嫌われるとわたしは言う。キリストは、終わりの日に神の国への門となる存在であり、誰も迂回することはできない。キリストを通してでなければ、誰も神に完全にしてもらうことはできない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神の道に従わなければならない。真理を受け取ることも、いのちの供給を受け入れることもなく、祝福だけを得ようと考えてはならない。キリストは、彼を真に信じる者にいのちを与えるために終わりの日にくる。その働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道だ。あなたが彼を認めず、彼を非難したり、冒涜したり、さらに迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。このキリストこそ、聖霊の現れであり、神の顕現であり、神が地上での業を託した者だからだ。だから、あなたが終わりの日のキリストがする全てのことを受け入れられないなら、あなたは聖霊を冒涜しているとわたしは言うのだ。聖霊を冒涜する者が受けなければならない報いは、誰の目にも明らかだ。そして、あなたが終わりの日のキリストに敵対し、拒むなら、誰もその結末をあなたに代わって引き受けることはできないともわたしは言おう。さらに、これから先、あなたが神に認めてもらう機会はない。たとえあなたが自らの罪を償おうとしても、あなたが神の顔を拝することは二度とない。なぜなら、あなたが敵対したのは人ではなく、あなたが拒んだのは卑小な存在ではなく、他でもないキリストだからだ。あなたはこの結末に気づいているのか。あなたが犯したのは小さな過ちではなく、重罪だ。だから、全ての人に忠告する。真理の前に牙をむき出したり、軽率に批判したりすることのないように。あなたにいのちを与えるのは真理以外にはなく、あなたを生まれ変わらせ、神の顔を仰ぐことができるようにしてくれるものは、真理以外にはないからだ。   
『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

多くの人々が神の二度目の受肉について悪い感情をもっている。神が肉になって裁きの働きを行うということが、人には信じがたいからである。それでも、しばしば神の働きは人間の期待を大幅に超え、それは人間の知性には受け入れがたいことである、とわたしは言わなければならない。人は地上の蛆虫にすぎないが、一方、神は宇宙を満たす至高の存在であるからである。人の知性は蛆虫だけを生み出す汚水のたまった穴に似ており、一方、神の考えが指揮する働きの各段階は神の知恵の凝縮である。人は常に神に敵対しようとしているが、これに関しては、最後に誰が負けるかは自明であると、わたしは言う。自分のことを黄金より価値があるとみなさないように、わたしはあなたがたに強く勧める。もし他人が神の裁きを受け入れられるなら、なぜあなたにはできないのか。他人に比べてあなたはどれくらい高位に立っているのか。もし他人が真理の前に頭を垂れるなら、なぜあなたもそうできないのか。神の働きには止めることのできない勢いがある。あなたのした「貢献」のためだけに神は裁きの働きを繰り返すことはなく、このような好機を逃すと、あなたは後悔に苛まれることになる。もしわたしの言葉を信じないなら、天空にある偉大な白い玉座があなたに裁きを下すのを待っていなさい。すべてのイスラエル人がイエスを拒絶し否定したが、それでもイエスによる人類の贖罪の事実は宇宙の果てまで広がったことを知らなければならない。これは神がはるか昔に成し遂げた一つの現実ではないのか。もしイエスがあなたを天に引き上げるのをいまだに待っているのなら、あなたは頑固な一片の枯れ木[a]であるとわたしは言う。あなたのような真理に不忠実で、祝福だけを求める偽信者をイエスは認めることはない。それどころか、何万年も焼かれように火の湖にあなたを投げ入れるのに憐れみを一切見せないであろう。
『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より

神はさらに多くの人々が懲罰を受けることを望んではいないのだ。むしろ、もっと多くの人々が救われ、もっと多くの人々が神の足跡に従い、神の国に入ることを願っているのである。しかし、もし人々が自分の誤りを認めることを拒み、謙虚な心で真理を受け入れることができず、代わりにつまらぬあら探しをして、欠点を見つけようとし、本当は分かっていないのに分かっている振りをするなら、最後に損をするのは彼らである。神の働きは誰も待ってはくれない。神の救いは、誰にでも見境なく投げ付ける一片のゴミのようなものではない。それはむしろ、目標と選択によって的を絞るのだ。もしあなたがそれを大切にすることを知らぬなら、あなたを待ち受けているのは、神の義なる裁きと懲罰だけである。神は全ての人々を公正に扱う。あなたが何歳であるか、どれだけ年の功があるか、また、どれほどの苦しみを経験してきたかに関係なく、神の義の性質は、これらのことに関わらず、永久に変わることはない。神は誰であれ、過剰に評価したり、えこひいきしたりしないのだ。人々への神の態度は、彼らが、他の全てのものを放棄することによって、真理を受け入れられるかどうか、また神の新しい働きを受け入れられるかどうかに拠る。もしあなたが神の新しい働きを受けることができ、神が表す真理を受けることができるのなら、その時あなたは神の救いを得ることができるであろう。あなたがもし熟練者としての自分の地位を誇り、自分の年の功を見せびらかし、神に条件を押し付けるなら、神の救いはあなたから取り上げられてしまうだろう。イエス・キリストを受け入れることができず、ただメシヤを待っていたユダヤ人たちのように、最後に彼らに降りかかるのは、神の呪いと怒りだけである。これは全ての者たちが見ることのできる事実である。…
…パリサイ人たちの知識や見せかけの行いは、彼らのイエス・キリストとの関係を救いはしなかった。逆にそれは彼らを害したのだ。そして主イエスを罪に定めるよう彼らを駆り立てたのは、彼らの知識と観念、及び彼らの心の中にある神のイメージであった。彼らを迷わせ、彼らの霊の目を覆い、すでに到来したメシヤを認識できないようにし、主イエスを罪に定めるために証拠を見つけ足掛かりを得るよう、できること全てをさせたのは、彼らの想像と知性であった。神の元来の働きを支持することを口実に、現在における神の現実的な働きを非難する―これが彼らの醜い素顔である。もちろん、これはどの時代に生きる人々でも犯しやすい過ちである―彼らは古い教理と規則を使って、以前一度も聞いたこともない真理を秤に掛け非難している。また、彼らは、神の前に真の道を固守し、自分たちの純粋さを保持し、自分たちは神に忠誠を尽くしていると考えている。しかし、事実はどうであろうか。神は常に新しい働きを行い、神の経営を維持し、常に新しく、決して古くならない。それでは人々はどうであろうか?彼らは、自分たちが神の表現の全容だと思い込んでいる古いものにいつもしがみ付き、自分の肩を叩いては自身を称賛し、傲慢で膨れ上がり、神は決して自分たちを捨てない、決して自分たちを悪く扱わないと信じる態度で、神が彼らに報酬を授けるのを待っている。その結果はいかなるものであろうか。神の働きは絶え間なく継続し、新しい時代のもっと多くの人々が神に従い、神の新しい働きを受け入れる一方、 神が自分たちに報酬を授けるのを待っている者たちは、神の新しい働きによって排除され、さらに多くの人々が神の懲罰の中へ落ち込むのだ。彼らの懲罰が始まる時点で、神を信じる彼らの人生は終わり、彼らの最後、また彼らの終着点には終止符が打たれるのである。誰もこのような目にはあいたくないと願うが、それは知らないうちに私たちの目の前で起こるのだ。これは神の性質がそれほどまで容赦ないことに起因するのだろうか。それとも人々の求め方に欠点があるからなのか?果たして人類が徹底的に自分自身を吟味することには価値がないのだろうか。
全能神への抵抗に対する懲罰の典型的実例』の「後書き」より

 脚注
 a.「一片の枯れ木」とは、中国語の慣用句で、「救いがたい」という意味である。

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