神は言われた。「わたしたちのために神が自ら新しい道を拓いたことが何度もあり、そのためわたしたちは一層堅く現実的な道を歩み続けている。このことは、わたしたち全員が自分の実践的経験から理解できる。それは、この道はこの世の初めから神がわたしたちのために拓き、何万年もの時を経て現在の世代に継承されたものだからである。したがって、わたしたちはその道を最後まで踏破しなかった先人から受け継ぎ、その最後の部分を歩むために神に選ばれた者である。ゆえに、その最後の部分は特にわたしたちのために用意されたものであり、わたしたちが恵みを受けるか、災いを受けるかにかかわらず他にその道を歩むことが出来る者はいない。これにわたしが自分の識見を付け加えるならば、他の場所へ逃げ出したり、他の道を探す計画を立てたり、地位を求めたり、自分の王国を建てたりしてはならない。そうした物事は、全て幻である。これらの言葉に何らかの偏見を抱いているならば、困惑しないようにしなさい。再検討する方が良く、利口になろうとしすぎたり、善悪を区別し損ねてはならない。神の計画が実現するとき、後悔することになるであろう。つまり、神の国が来ると、神は地上の国家を打ち砕くが、その時あなたは自分の計画も消え去っていること、罰せられたのが打ち砕かれた者であることを知るであろう。その時、神は自らの性質を完全に明らかにする。わたしはこの問題について熟知しているので、将来あなたがわたしのことで苦情を言わないように、あなたにこのことを伝える必要があると考えている。現在までわたしたちがこの道を歩むことが出来たことは神が定めたので、自分が特別だとか不幸だとか考えてはならない。打ち砕かれないように、神の現在の働きに関しては誰も断定してはならない。神の働きを通してわたしに光が来ており、何があろうと神はこの集団の人間を完全にするのであり、また神の働きは変えられることは出来ない。神はこの人たちをその道の最後まで連れて行き、地上における神の働きを完了する。これはわたしたちが皆理解すべきことである。大部分の人々は常に進取的であり、飽くことがない。彼らは皆、神が現在切望している意向に関する認識が欠如しているので、逃避願望を抱いている。彼らは手綱から解き放たれた野生の馬のように大自然の中を走り回ることを常に望んでいる。しかし、良きカナンの地に定住して人間的生活を求める者は希にしかいない。そうした人々が乳と蜜の流れる地に入ったならば、それを享受することしか考えないのではないであろうか。率直に言って、良きカナンの地の外はどこも荒野である。人々は安息の地に入った時でさえ、自らの本分を維持することが出来ない。そうした人々は単なる淫らな者ではないであろうか。その環境において神により完全にされる機会を失ったならば、それは余生を通して悔いる事となり、計り知れず遺憾に思うであろう。結局あなたは、カナンの地を見つめるだけでカナンでの生活を享受することができず、拳を堅く握って後悔で満ちたまま死んでいったモーセのようになるであろう。それを恥ずかしいことだとは思わないのだろうか。他人に嘲笑われるのを恥辱だと思わないのだろうか。他人に辱められることをいとわないのであろうか。立派になろうと努める気持ちがないのであろうか。神により完全にされる誉れある正直な人間になる覚悟がないのであろうか。本当に決断力に欠けている者なのであろうか。他の道へと進む覚悟はないが、神が定めた道を歩む覚悟もないのだろうか。敢えて天の旨にはむかうのであろうか。あなたの技能が如何に優れていたとしても、本当に天に逆らうことが出来るのだろうか。わたしはまず自分を知るのがわたしたちにとって最善であると思う。神の一言で天と地は変化するのであるから、貧相で小さな人は神の目にどのように映るであろうか。」
『言葉は肉において現れる』より

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