2020年1月26日日曜日

全能神教会 | 救われることと完全な救いを得ることの本質的な違いは何か


よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。」(ヨハネによる福音書 8:34-35)
わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書 7:21)
彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。」(ヨハネの黙示録 14:3-5)
関連する神の言葉
イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられ
た人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。
『言葉は肉において現れる』の「序文」より
最初の受肉は人を罪から贖う、つまりイエスの肉体を通して人を罪から贖うためであった。つまり、イエスは十字架から人を救ったが、堕落したサタン的な性質は依然として人の中に留まった。二番目の受肉はもはや罪のためのいけにえとしての役割ではなく、罪から贖われた人たちを完全に救うことであった。それにより、赦されたものが罪から解放され、完全に清められ、性質が変えられ、それによりサタンの暗闇の影響を打ち破り、神の玉座の前に戻ってくるためである。このようにしてのみ、人は完全に清められる。
『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より
いつもこのように考える人がいます。「神を信じることは、ただ集会に出席して、歌を歌って、神の御言葉を聞いて、祈って、本分を尽くすことではありませんか。単にそのようなものではないですか。」どれほど長く神を信じてきたとしても、あなたがたはまだ神を信じる意義をあますところなく理解していません。実は、神を信じる意義はとても深遠なので、人がそれを理解することはできません。最後、人々の内にあるサタン的なもの、人々の本性から来るものが変化しなければならないのであり、真理の要求することと両立するようにならなればいけないのです。そうすることでのみ本当に救いを得ることができます。あなたが宗教にいたときにしていたように、ただ教義の言葉をまくしたてたり、スローガンを叫んだりしても、また二、三の善行を行い、それよりほんの少しだけよい振る舞いを見せ、明らかな罪を犯さなかったとしても、神を信じる正しい道に踏み出したことは意味しません。規則に従えることは正しい道を歩いていることを指していますか。あなたが正しい選択をしたことを意味しますか。本性の中にあるものが変わっていなければ、結局まだ神に抵抗して背いているなら、それがあなたの最大の問題です。神への信仰の中でこの問題を解決しないなら、救われたとみなされることができますか。わたしはこう述べることで何を意味していますか。神への信仰は神の御言葉から、神から、また真理から切り離せられないことを、あなたがたすべてに心から理解させるためです。あなたは道をうまく選び、真理に努力を注ぎ、神の御言葉に努力を注がなければなりません。ただ生半可な認識や、多少の理解を得ただけで、それで済んだと考えてはいけません。自らを傷つけるだけです。人は神への信仰において逸脱してはいけません。心に神がなく、本を手にしてざっと見るだけで、心の中に神の居場所をあけていなければ、結局その人は終わりです。「人間の神への信仰は、神の御言葉から切り離せない」という言葉の意味は何ですか。「神への信仰は神から切り離せない」という言葉と矛盾していますか。心の中に神の御言葉がなければ、どうやって心に神をもつことができますか。神を信じながら、神も、神の御言葉も、神のお導きも心になければ、あなたは完全に終わりです。
『キリストの言葉の記録』の「聖霊の働きを失った者は最も危険にさらされている」より
神を信じる意義は救われることです。では救われることの意義は何ですか。人は「救われる」「サタンの闇の影響から解放される」といったことをよく話しますが、救われるとは何を意味するかを知りません。救われるときの人は一体どのようなものでしょうか。これは神の旨に関係しています。日常の言葉で言えば、救われるとは生き続けられることと、神によって生き返ることを意味します。では、その前は話したり呼吸したりできるのに、それでも死んでいるのですか。(霊は死んでいます。)霊が死んでいるなら人は死んでいると言われるのはなぜですか。そう言われる根拠は何ですか。人は救われる前、サタンの暗い影響の下で暮らし、堕落したサタン的な本性によって生きています。ゆえに神の視点から見れば、肉だけでなく霊や考えといった他のすべての側面を含めて、人の存在全体が死んでいるのです。表面上は呼吸をし、瞬きし、考えているように見えますが、絶えず考えていることはどれも悪であり、神に背いたり反抗したりすること、神が嫌い、憎み、非難することを考えています。神の目から見れば、こうしたことはすべて肉に属するだけでなく、サタンと悪魔に完全に属してもいます。では、神の目から見て人は何ですか。人間ですか。神は人を悪魔、動物、生けるサタンとして見ます。人はサタンの本質によって生きており、神の目から見れば、人の皮を被った生けるサタンなのです。神はこのような人を歩く死体、死人と定義します。神はこのような人、つまり堕落したサタン的な性質や堕落したサタン的な本質によって生きるそうした歩く死体に現在の救いの働きをします。つまり、これらのいわゆる死体をとらえ、生ける者へと変えるのです。それが救われることの意味です。
神を信じることの要点は、救いを獲得することです。救われることは、死者から生ける者へと変わることを暗示しています。つまり、あなたの呼吸は蘇り、生きるのです。目を開いて神を見、神を認識することができ、ひれ伏して神を崇めることができます。心の中にはさらなる神への抵抗はありません。神に抵抗したり、攻撃したり、反抗したりすることも、もはやありません。そうした人だけが神の目から見て本当に生きています。自分は神を認めているし、神が存在することや、神が万物を統治して人類の運命を支配することを心の中で信じていると言うだけなら、あるいは、人は生涯をとおして神に導かれ、神は人の運命を変え、先へ進む道において人を導けるのだと信じているなら、このような信仰をもつ人は生きていますか。生きていませんか。(生きていません。)では、どのような人が生きていますか。生きている人はどのような現実を自分のものにしていますか。それは明らかにすること、考えること、行なうことのすべてが、神を畏れ悪を避けるということです。より適切に言えば、行ないや考えがどれも神に非難されず、嫌われたり拒否されたりもしません。むしろ神に認められ褒められます。それが生ける者の行なうことであり、また行なうべきことでもあります。
『キリストの言葉の記録』の「真に服従していることだけが本当の信仰である」より
暗黒の影響を受けて生きている人々は死の中に生きているのであり、サタンにとりつかれている。神に救われなければ、そして神の裁きを受け、刑罰を受けなければ、人々は死の権勢から逃れることはできず、生きている人にはなれない。こうした死人たちは神について証しをすることはできないし、神に用いられることもできない。いわんや神の国に入ることはできない。神は死人ではなく、生きている人々の証しを望んでおり、死人ではなく生きている人々が神のために働くことを求める。「死人」とは神に反対し、神に逆らう人々であり、霊が麻痺し、神の言葉を理解しない人々であり、真理を実践せず、神への忠誠心など微塵もない人々、サタンの支配下に住み、サタンに利用されている人々のことである。死人は真理に反対し、神に逆らい、卑しく、卑劣で、悪意があり、野卑で、悪賢く、陰険であることで自らを表す。そのような人々はたとえ神の言葉を飲食しても、神の言葉を生きることはできない。彼らは生きているが、歩く死体、呼吸する屍である。死人は神を満足させることは全くできないし、いわんや神に完全に従うことなどできない。神をだまし、冒涜し、裏切ることしかできない。死人の生き方はすべてサタンの性質を明らかにする。もし、人々が生きている存在になり、神への証しを立て、神に認められることを望むならば、神の救いを受け入れ、神の裁きと刑罰に喜んで服従し、神による刈り込みや取り扱いを喜んで受け入れなければならない。そうして初めて神が要求する真理のすべてを実践することができ、そうして初めて神の救いを得て、本当に生きた存在になることができる。生きている人々は神によって救われ、神から裁きと刑罰を受けており、進んで神に身を捧げ、喜んで神に命を投げ出し、全人生を神に捧げる。生きている人々が神への証しをたてる時のみ、サタンを辱めることができ、生きている人々だけが神の福音の働きを広めることができ、生きている人々だけが神の心にかない、生きている人々だけが本当の人である。神により造られた人は元々は生きていたが、サタンに堕落させられたために死の只中で暮らし、サタンの影響下で暮らすようになり、そこで人々は霊のない死人となり、神に反対する敵となり、サタンの道具になり、サタンの囚われ人になってしまった。神が造った生きている人々はすべて死人となり、そこで神は証しを失い、神が造り、神の息を吹き込まれた唯一の存在である人類を失ってしまった。もし神が証しを奪い返し、神の手で造られたがサタンに奪われた人々を奪い返すならば、神は彼らが生きている人々になるようによみがえらせなければならないし、神の光の中で生きるように彼らを奪い返さなければならない。死人とは霊を持たず、極端に無感覚で、神に反対する人々のことである。そのうえ、彼らは神を知らない人々である。彼らは神に従う意思など微塵も持たず、神に反抗し、反対するだけであり、忠誠心はまったくない。生きている人々は霊が再生しており、神に従うことを知っており、神に忠実な人々である。彼らは真理と証しを備えており、彼らだけが神の家で神に喜ばれる。
『言葉は肉において現れる』の「あなたは生き返った人か」より
神がすることが何であれ、その手段がどのようなものであれ、代償がどれほどであれ、方針がどのようなものであれ、神がすることの目的は変わらないということである。神の目的は、神の言葉、神が要求するもの、そして神の心を人間に対して働くことである。つまりそれは、神が自身の段階に沿って善と思うもの全てを行ない、人間が神の心を理解できるようにし、神の本質を理解できるようにし、神の支配に従えるようにし、そうすることによって神を畏れ悪を避けるようにするためである。これが神のすること全てにおける神の目的のひとつの側面である。もうひとつの側面は、サタンが引き立て役で神の働きにおいては仕えるものであるため、しばしば人間はサタンの手に渡されるのである。これは人間がサタンの誘惑と攻撃のただ中にあって、サタンの邪悪さ、醜さ、そして卑劣さを理解するために神が用いる手段であり、そうすることで人々がサタンを憎み、悪であるものを知り、理解できるようにするためである。このような過程を通ることにより、人々はサタンの支配から徐々に解放され、サタンの非難、妨害、攻撃から解放される。そして神の言葉により、彼らの知識と神への従順、神に対する信仰と畏れにより、サタンの攻撃に勝利し、サタンの非難に勝利する。そうして初めて、人々はサタンの支配から完全に解放される。サタンから解放されるということは、サタンが打ち負かされたということであり、彼らはサタンの獲物でなくなるということである。彼らを飲み込む代わりに、サタンは彼らを手放したのである。なぜなら、そのような人々は正しく、信仰を持っており、従順であり、神を畏れていたからであり、サタンと完全に決別したからである。彼らはサタンを辱め、怖じ気づかせ、完全に打ち負かした。神に付き従うという彼らの確信、神への従順と畏れがサタンを打ち負かし、そしてサタンに自分たちへの攻撃を諦めさせるのである。このような人々だけが真に神のものとされ、そうなることが正に人間に対する神の救いの最終目標なのである。彼らが救われることを願うのであれば、そして完全に神のものとされることを願うのであれば、神に従う全ての人は誘惑とサタンからの大小の攻撃に直面しなければならない。このような誘惑や攻撃から抜け出た者が、サタンに完全勝利することができる。このような者が、神に救われた者である。つまり、神により救われている者は神からの試練を経験したものであり、サタンの誘惑と攻撃を何度も受けたことのある者である。神により救われている者は神の心と要求を理解でき、ひたすら神の支配と采配に従い、サタンの誘惑のただ中にあっても、神を畏れ悪を避ける道から逸れることがない。神により救われている者は正直であり、心優しく、愛と憎しみを区別し、義と理性を知っており、神を配慮し神の全てを大切にする。そのような人々はサタンに束縛されておらず、監視されておらず、非難されたり虐待されたりしていない。完全に解放されており、全く自由である。
『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 2」より

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